メディアが左傾に見えるのは当然である

最近いくつかの「webニュース専業メディア」を見ている。「マイニュース」とか「オーマイニュース」とかの類だ。

ざっと見ると、「えらくサヨだな」という印象を受ける。もちろんこの傾向は記事によってまちまちなのだが、総じて「ニュース」として秀逸な記事はサヨっぽい。もちろんダメな記事も山ほどあるし、最初のスタンスからしてサヨな記事も少なくないのだが、「秀逸な記事」を拾うとサヨっぽいのだ。
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斜め45度上空の勧め

この時期、どうも世の中はウヨとサヨになる傾向にある。

かつての戦争をどう見るとか、靖国をどう見るか、そういったあたりがウヨサヨを湧かせるのだろう。しかし、そこでいつも思うのは、そう簡単に思想を右左に分けて良いものだろうかということだ。また、そういった「二元論」に持って行くのはどうなんだろうかとも思う。これは韓国(や中国)に対する「反」「親」も同じだ。
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mixi運営への質問状(最終版)

8月12日頃日下部陽一氏の アカウントが再三にわたり停止されたわけですが、それについて根拠となる利 用規約および経過についての説明の掲示を要求します。

今回の判断には彼の行為に対する抗議があったものと想像しますが、その抗議 の内容についても、それをどのように判断して強制退会になったかという経過 についても、説明は一切ありません。あくまでも「総合的判断」と言う、客観 的には理解のできない表現でのみ述べられるに留まっています。我々が客観的 に得る情報から「総合的判断」をするなら「mixi運営は自分たちの邪魔と判断 した者を恣意的な規約運用で排除した」としか解釈できません。しかし、この ことは「mixiを使い続けるためにはmixi運営の機嫌を損ねてはいけない」とい う意味になりますから、一会員としては非常に不安になることであります。

mixiも100万人を超える一つの社会となりつつあります。100万もいれば、いろ いろな価値観の人もいます。ある人にとっては、日下部氏の発言は迷惑以外の 何者でもないでしょう。しかし、別の人にとっては、彼から大きな示唆を受け、 知識を得るものでもあります。本来mixiとはこのような「人と人との交流」を 目的とした場ではなかったでしょうか?

無論、いかに価値観が多様化しているとは言え、一般社会での犯罪行為になる ものや公序良俗に反する行為をmixi内における禁止行為とすることは、許容範 囲内にあると考えます。そして、社会に於いてそのための基準が「法律」とい う形で提示されています。しかし、mixiに於いては、この「法律」にあたるも のは「利用規約」のみであり、その内容も100万を超える価値観を収容するに 足りるものではないように思います。利用規約が想定していない事態に対応す るための「運用理念」といったものも明文化して提示されていません。

mixiは既に100万人以上のidからなる、「社会」です。都市人口が100万人超え れば政令指定都市となります。それくらいの巨大社会なのです。その社会にお ける「死刑」と等しい処分である強制退会という判断を行うには、それなりの 根拠が明確化されていない限り、彼や彼周辺の人達は納得できないでしょう。 またそうでない人達にしても、「総合的判断」といったような、明確な理由が 示されないままでそのような判断が行われることに、不安を感じる者もいるで しょう。mixiは多くの価値観を収容する社会ですから、価値観によって見方が 変わるようなことがらについては、注意深く取り扱わなくてはならないのは自 明のことです。

以上のことから、以下のことの説明を要求します。

  • 日下部氏強制退会に至るまでの経過
  • その根拠となる利用規約
  • 再入会後のid削除に関する経過と根拠

なおこの質問状については、単に日下部氏と親しい好意的な者からだけではな く、むしろ反感を持っている者も含めての意見を集約したものであることを申 し添えておきます。

参考

「軽率のそしりをまぬがれない」

ヨミウリウィークリーの宣伝文句の中に、

> こうしたポルノアニメと犯行を結びつけるのは、軽率のそしりを免れないが、

と言い回しがある。わかる人はわかると思うが、これは非常にズルい言い方だ。

このようなことを書くのは、本人はそう思っているからである。そうでなければ書いたりはしない。「軽率のそしりを免れない」と思うなら、そんな軽率な文章は最初から書いてはならない。ところがそれを書いているということは、本人はその主張をしたいと思っているわけである。

ところが、ここに「〜というのは軽率のそしりを免れないが」とつけ足すことによって、「私はそんな主張はしてませんよ。ちょっと思ったけです」という言い訳がされている。つまり、この文章に対する批判をかわすことができる。

つまり、自分の主張を公表しながら、その主張による責任を避けることをしている。人前で売文を晒す人間にあるまじき書き方である。

まぁこの一文を持って、この文章を書いた人がズルい人間だと断定してしまうのは軽率のそしりを免れないとは思うが。

優しくするということ

私は下に甘い。

厳しくするのはかなりバランスが必要なことだし、放置して変な方向に行かれても困るので、なるべくフォローすることにしている。フォローは「介入」という意味でもあるので、自分の介入する部分が増えるのも都合が良い。また、厳しくすると「気を悪くするのも嫌だしな」とか思うと、ますます甘くなってしまう。
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「人の品位をただす職」地検事務官が詐欺

「人の品位をただす職」地検事務官が詐欺 

この手の不祥事が起きる度に、

> 「人の品位をただす職に就くものがしてはならない行為。国民すべてにおわびしたい。徹底的に捜査し厳正に刑事上、職責上の処分を行う」と話した。

といった類のコメントがされる。まぁ裏でどう考えていようと、再発はして欲しくはなかろう。「バレなきゃいい」とか思ってるのかも知れないが、それにしてもバレる原因がない方がいいのは確かだろうし。

この手のことが度々起きることを見るにつけ、この手の事件が再発するということは不可避なのではないかと思う。だって人間だもの。人間に完全を求めてもしょうがない。ある確率で起きることは不可避だろう。

だったら、そういったことは「ある確率で起きるもの」として組織を作る方が正しくないか? 民間では人材の冗長性を上げるというのは難しいが、役所ではそうやっても良かろう。そのために無駄に見えるコストが発生しても、それは必要なことではないかと思う。

その一つとして「監察」という組織があるはずだから、このような事件は事件を起こした人の上層の人間だけではなく、監察も謝罪するべきだ。いや、 むしろそっちの方が大きかろう。また、それでは足りなかったら、そういったものを補強して行くべきで、「こいつが悪い」で済むことではないと思う。

「正義」を疑え!

人間はどうもこの「正義」というものに弱い。ある行動が「正義」に基くとされた時、無条件にそれを支持することを要求される。それに反対するものはすなわ ち「悪」であり、「正義」の対極に属するものとされる。「正義」のためには手段を選ぶ必要はないし、「悪」は徹底的に潰すのが正しいとされる。

しかし思い起こしてみるが良い。戦前の「非国民」は当時の「正義」の対極であるとして攻撃された。関東大震災の時に朝鮮人の虐殺があったが、これ は彼等が井戸に毒を入れるという危険から、国民を守り自発的な行動であった。非社会的な情報を扱う掲示板はしばしば「社会的正論」を根拠に荒らされる。 「自殺系サイト」はその良い例だ。ナチスのユダヤ人の迫害も「ドイツ国民の純血をまもるため」であったはずだ。どれも志はみな「正義」に基いている。

冷静に考えてみれば、「正義」という名の「大儀名分」がどれだけ危険なものかようわかるはずだ。だいたい、世の中の「悪いこと」は、悪い人が悪い ことをしようとして起こしているものは実は少なく、善良な人が良かれと思いながら悪い結果になってしまっているということが多いのだ。

「正義」とか「良い」とかいうことは、しばしば思考停止をさせる。しかし、それを大儀名分とした行為は、かなり残酷なことであることが少なくないのだ。

「正義」を疑え!