斜め45度上空の勧め

この時期、どうも世の中はウヨとサヨになる傾向にある。

かつての戦争をどう見るとか、靖国をどう見るか、そういったあたりがウヨサヨを湧かせるのだろう。しかし、そこでいつも思うのは、そう簡単に思想を右左に分けて良いものだろうかということだ。また、そういった「二元論」に持って行くのはどうなんだろうかとも思う。これは韓国(や中国)に対する「反」「親」も同じだ。

この手の「二元論」は多くの場合「レッテル貼りによる思考停止の手段」として使われる。「ウヨは黙れ」「サヨはひっこんでろ」の類だ。そうすれば、ある主張について、半分くらいの人間が効率良く黙らせられる。「あいつはサヨ」とレッテル貼りをすれば、なんとなく左っぽいものが嫌いとか、どうもみんなが左っぽいものを嫌っていてそれに迎合したい人達から、効率良く支持が減らせられる。そういった意味では「プロ市民」なんてのも同じで、これについては以前に書いた。

しかし、冷静に考えてみれば、この「二元論」は始める前から破綻していることがわかる。なぜなら、「人の思想なんてそう綺麗に二分できない」からである。それは問題を細分化して行けば行く程顕著になる。この時期おなじみの靖国であっても、個別のことについていろいろな意見があるものは、明白である。その意見について「ウヨサヨ」のレッテル貼りは、個別の意見については言えるだろうが、言っている「人」については難しいはずだ。

私の書くものにサヨっぽいものとウヨっぽいものが共存しているのは、カモフラージュのためとかではない。それぞれの事柄にそれぞれの考えがあって、それをストレートに書いているからだ。確かに「育ち」の関係があって、根底にはサヨっぽいものがあることはあるが、社民党や朝日新聞は勘弁してくれと思っている。韓国については、個人間では「親韓」であるが、国家間では「憂韓」だしビジネスとしては「知韓」だ。「9条」は確かに大事だと思うが、再軍備についての議論はすべきだと思っている。

ところが、人には「制服願望」というものがある。つまり、「ある服を着るとその服にふさわしい行動を採ろうとする」のである。「ウヨ」とレッテルを貼られると、「ステレオタイプ化されたウヨ」の行動を採ろうとするし、「サヨ」とレッテル貼りをすれば… である。レッテル貼りをすると、中身までそのレッテルに合わせてしまうのである。

ある種の思想に染め上げてしまうことは、それ自体が全体主義的である。そういった意味では人の持つ「制服願望」は本能的に全体主義を求めてしまうという意味である。「俺は反骨で行くんだ」という人であっても、結局多くの場合「その全体主義の反対」であって、同じベクトルの上にいることは同じだ。右か左かという「二次元」なのである。

全体主義はどっちの向きでも、それを操作する者にとって都合がいい。現代ではあからさまな全体主義は存在しにくくなっている。しかし、「レッテル貼り」による全体主義は存在し続けているし、ますます進んでいる。たとえばありがちのレッテルである「反日」も「嫌韓」も同じように馬鹿げている。なぜなら、「操作する者にとって都合のいい全体主義」を「自ら進んで」選択しているといるからだ。「自ら進んで」選択してしまったものだから、「自分の思想」だと思い込んでいるのがおめでたい。そして、「自ら進んで」操作されてしまう。

歴史を見れば、右にも左にもあまり明るい未来はなさそうだし、「親」と「反」でもそれは同じだ。かと言って「中道」なんてのは「0」と同じだ。そうであるなら、そういった平面ベクトルの呪縛を離れて、「斜め45度上空」を求めるべきではないか。いや、個が個であるためには、「亜空間」でもいい。

「二次元」はアニヲタに任せておけばいい。

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