XSLTその後

XSLTの練習をかねて、いろんなスクリプトを書いてみる。今書いているのは、gladeのXMLをHTC(私の定義したHTMLのマクロ言語)に変換するもの。

XSLTの変数は一度しか代入ができない。と言うか、定義はできるが代入はできない。配列なんてものもない。厳密な意味でのループもない。となる と、GnumericのXMLみたいな「テーブル状のものを想定して、そこの値が行と列番号と共に入っている」といったものを処理しようとすると、頭を抱 えることになる。

最初は「できないんだ」と思っていたのだが、XSLTは再帰ができるらしい。再帰ができるということは、もちろんループが作れるということだから、どうとでもなる。

ということを発見した時には「そうかその手があったか」と思うと共に、「Lisperならいざ知らず、普通のカタギの言語しか使ったことのない人 には使えないじゃん」とも思った。潔い仕様だとは思うが、XSLTってそういった理論がどーこーな言語じゃなくて、カタギな人がガンガンXMLを処理する ために作られた言語じゃないのかしらん。

木の処理に再帰というのは、本質的とも言えるのでカタギでも納得してくれるだろうが、たかがループにまで再帰を使えと言ったら、「なんで?」という反応をするのが普通ではないだろうか。

お化粧萎え

今日は雨が降っているのでそれ程ではないのだが…

私は朝風呂に入って、それから会社に行く。
「脂ぎった中年男」なので、結構顔に脂をかく。暑い日は汗も含めて顔がベタベタになる。それは気持ち悪いので、ティッシュでふくことにしている。肌がさらっとして気持ちがいい。

そこで気がつくのは、ティッシュが汚れるということである。もちろん脂で汚れるのは当然としても、それ以外の色がつく。簡単に言えばかなり黒っぽい。顔を洗う時は結構しっかり洗っているので、汚れが残っているということは多分ない。また天気とか会社に来るルートによって差異があるので、おそらくはこれは大気中の汚れが付着したのであろう。

私はそれが嫌でティッシュで拭き取る。汗をかいて気持ち悪い時には顔を洗う。なので、まぁいつまでも汚れているというわけではないのだが、お化粧している女の子だと、どちらもできない。せいぜい脂取り紙で脂を取る程度であって、肌を綺麗にするということは無理だ。

つまり、化粧をしている女の子は、朝化粧してから夜落とすまでその汚れを顔につけたままだということである。室内ならまぁ「白いティッシュが汚れて気がつく程度」なのだが、外を歩いてる人となると… とか思うと、ちょっと萎える。

言語を学ぶ

プログラミング言語じゃなくて自然言語の方。

中学生から英語を学ぶ。まぁこれは誰でもたいていはそうだ。英語教育の批判でよく言われるのが、「中学高校大学と習っているのに満足に会話ができ ない」ということ。私なんぞ高専だったからロクに英語をやってない。それでも見栄で英語文献とか読んでたし、教会の牧師はアメリカ人だったのでわりと英語 のある環境だった。とは言え、「出来れば避けておきたい」ことには変わりはない。

高専の時に手話を学ぶ。日本で使われている「手話」は「手指日本語」と「日本手話」とあるのだが、とりあえず両方学ぶ。これはどちらも使う機会が 多かったので、はっきり言えば英語より得意だ。手話は世界共通ではないが、似ているところは非常に多いので、海外の手話を見てもなんとなくわかる。便利で いい。私の第二外国語は日本手話である。

学校ではドイツ語も習ったらしいが、覚えているのは音読することだけだ。さーっぱりわからん。でも、幸いにして英語がそんなに得意ではないので、 ドイツ語の文章を見ながら「これは英語だ」と念じて読めば、なんとなく意味の見当くらいはつく。ラテン系の言語は細いことを忘れればたいてい似ているわけ だし。語尾変化? 不規則変化? そんなもんどうせ日本人が大雑把に意味をつかむ時には関係ない。同じ手はフランス語にも使える。

中国語はさっぱりだ。だけど、漢字のマッピング(大陸だと略字体だし、台湾だと繁字体だし)がわかっていて、漢文がわかればなんとなくわかるので、中国人技術者と話する時には使える。まぁそれ以上はまるでわからんし、音読はできないわけだが。

ここ数年、仕事の関係もあって韓国語を学ぶ。ハングルを読むこと自体は半日もあればどうとでもなる(Java覚えるより簡単だ)。文法は日本語とほぼ同じなので、とにかく単語を覚えればいい。と言ってもこいつが曲者なんで、なかなか…

先日、新宿駅で外人に「浅草へはどう行けば良いのか?」とか聞かれた。相手が片言の日本語だったので英語で会話することにしたのだが、「英語って こんなに楽な言語だったのか!」と思ってしまった。ここのところ毎日韓国語テキストばかりを見ているのだが、サッパリわからんとまでは言わなくても、覚え ることが多過ぎて参っていたのだ。頭の中が「外国語は難しい」モードになっていたのである。ところが英語なんてのは中学の頃からやって、それなりに本読ん だり会話したりして来てるわけなんで、韓国語よりはずっと楽だったのである。いろいろやってみていようが、文法が同じような言語であろうが、普通の日本人 が一番楽な外国語は英語だと理解してしまった。

事実に目を向けよう

だったか、MSの最近の広告のことである。内容は「TCOは(我々が作らせた)第三者による調査によると、LinuxよりもWindowsが安いんだよ」って話である。

この広告。Linuxな世界ではいろいろ目くじら立てる人もいるし、まぁ見ていてあまり気持ちのいい広告ではないなとは思うんだけど(MSってもうちょっとスマートでかっこいいキャッチフレーズを作る会社でしょ)、よく考えてみると、「聖歌隊に伝道」みたいな話である。

MSのこの手の広告を信じる人は、MSのどんな広告でも信じるわけだから、既に「Windowsを使って笑ってお仕事」していたりするはずである。その手の人にとっては「あったりまえじゃーん」である。

MSのこの手の広告を信じない人は、MSの広告を見る時には目が見えなくなるくらい眉に唾をつけて見るはずだから、「んなことあるわけねーじゃん」である。

ということで、どっちの立場の人にもあんまり意味を持たない広告なのではないかと思う。

余談ながら「聖歌隊に伝道」というのは、既に教会に行く習慣のある聖歌隊に伝道しても、結果は同じということから、「教える必要のない人に教えてしまっている」ということである。「釈迦に説法」とは若干違う意味のようである。元は英語だったかんぁ。

心が病んでいる

http://www.zakzak.co.jp/top/2004_06/t2004062601.html
これによると、先日の5歳児投げ落としの娘は、心が病んでいたそうだ。

何にせよ病というのは不幸なことで、特に精神的な病というのは、一見マトモそうに見えているという点で、また内容によっては周囲に理解されにくいため、不幸の度はかなり大きい。怪我や身体障害(私は「障碍」という字は使わない。このことは「電脳騒乱節」にちょっと触れられている。そこに出て来る「Oさん」とは私)の類は見た目もそれっぽいので理解されやすい。先日私が入院した時は、髭も剃らず髪もとかさずだったのだが、これも「点滴がないと病人らしくない」ということから、病人らしさの演出だったのだ。「らしさ」というのは理解を受ける上で重要である。
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Javaは嫌い

早く寝たのに早く目が覚めてしまったので、朝からちょっと調べ事。ふと思い立って、freeなJavaVMを調べてみたり。

元々Javaは嫌いな言語である。私が母校で俺言語を作るという講義を持っていた時には、「Javaはダメな言語である」という話を1時間ばかししていたくらいである。何がダメとかということはいろいろ言われているので、重複することも多くなるので書かないが、それとは別に嫌いなのである。何が嫌いかと言えば、
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視点

低炭水化物ダイエットは今のところ続いている。体重を計ると入院前から4kg近く減っているんで、退院して「おらー食うどー」なリバウンドもなかったとい うことで、この調子だと70kg切りは来週末くらいか。ここ10年くらい70kg超えていたので、久々の60kg台である。本当は60kgくらいにしな きゃいけないのだが、それは当分かかるんだろうな。と言うか、主題は体重を減らすことではなくて、脂肪肝と何とかすることなのだけど。

# 見掛けよりも重いのです

相変らず外食で糖質を採らないというのは難しい。今日になって牛丼屋でサイドメニューだけを頼むという技を覚えたので、いくらか楽になったのだ が、それでも簡単にというわけには行かない。ふと気がつくと、我々はいかに糖質の中で生活しているか。お菓子の類はほとんどみんなそうであるし、いわゆる 主食はみんなそうだ。一応「低炭水化物ダイエット」は「炭水化物以外はほぼ無制限に食っても良い」という点で、楽なはずなのだが、現実に食えるものが少な いために、結局のところ「何も食うな」にかなり違いのである。単なる減量よりもマシなものにするためには、もっと糖質抜きの食事についてのノウハウを得る 必要がある。

ということで、今まで持っていなかった「糖質抜き」という視点で食いものを見るようになったわけで、そしてその視点で食べもの全般を見ると、「食うものがない」ということ、つまり「世の中食うものはたいてい糖質である」ということに気がついたのである。

前の会社の同僚で、魚も肉も食えないという人がいて、当時は「いったい何を食う気だ?」とか思っていたものである。彼女は長年そういった生活をし ているので、そういった視点で世の中の食べものが見えていたようで、「嫌いなものが食えないのと同じこと」と言ってのけていた。まぁそれなら好き嫌いの延 長なんで、嫌いなものは無視しちゃってるわけだから、そんなに難しいことではないか。

視点というのはそれこそ視点なので、その視点まで行かないと視点なかなかその視点からの見え方はわからないし、その視点に立ってしまうと世の中の見え方が変わるものだなぁと感じた次第。

ごめんで済んだら警察いらんのんじゃ

最近どうも凄い事件が多い。それも年端も行かないような子供がやっている。被害者の方は加害者が誰であっても被害は被害なので、同じことであるから、被害者の立場だとある意味「大差ない」と思うのであるが、加害者の方が未来のある子供だという点で、なんともなぁと思う。

で、それで捕まった後には「すいません」「今は反省してます」といった類のことを言う。別にしなきゃならないことで失敗して結果が悪くなったんだから、謝って済むというもんではないと思う。「ごめんで済んだら警察いらんのじゃ!」と思うのは、被害者だけではなかろう。

ということを思って、いつもは自分で「うん。だから○○府警(両方じゃん)はいらんよ」とかツッコむのだが、よく考えると警察の不祥事は相変らずだ。不祥事そのものでなくても、冤罪事件の類はいっぱい聞くので、「そんな警察はいらん」とか思う。

もしかして、「警察の不祥事の件数」と「なんだかなぁな犯罪の件数」って相関関係があったりしないか? 「ごめんで済んだら警察はいらん」もそうだが、「いらん警察が増えるからごめんで済ませようとするんじゃ」と。

壁に耳あり

今朝来る電車の中の話。

私は始発駅(渋谷)から乗るので、いつもベストの場所に座れる。とゆーか、急いでない時はベストの位置に座れそうになかったら、次にする。まぁ銀 座線は本数が多いので、それをやっても数分の違い。今日はうまい具合にすぐに座れた。どこがベストかと言えば、一番端の席。気をつかうべき人が片側にしか いないというのは気楽だからね。

その席は結果として入口付近になるので、立つ人が増えた時には優先的に埋まる。今日は赤坂見附あたりからそうなって来た。たまたま私の前に立った 二人組は、どうもギョーカイ筋の人のようで、「ツールを作る」なんて会話が聞こえて来る。話の内容は「ふーん」なことやら「ぉぃ」な話があって、なかなか 楽しめる。そのうち「Linuxを使って」みたいな話が始まって、来て「あわわ」と思うのだけど、既に無名になっている私に気付く風もなし。なので、ます ます話が面白いことに。

と言えば、以前電車の中でpppについて話してる男女(男が説明)がいたんだけど、間違いを教えてるから「それは…」とつっこんだことがあったな。

とゆーことで、誰が聞いているかわからないので、電車の中での会話には注意しましょう。

剃刀

私は髭は剃刀で剃る。その方が深剃りができるし、何よりも剃り残しが出ない。私は風呂は朝に入るので、風呂に入っている時に剃ればいいだけなので、そう手間のかかることでもない。と言うか、電気髭剃りで剃る方が剃り残しを気にすると手間がかかるように思う。

そろそろ剃刀の切れ味が悪くなって来たので(なぜかこれはある日突然気になりだす)、刃を交換した。いつも不思議に思っていることなんだけど、刃よりも明らかに柔かいはずの髭しか切っていない刃が、どうしてだんだんなまって来るのだろう。もちろんこの理由を「科学的」に考えれば納得することではあるのだけど、どうも感覚的に納得できない。刃よりも堅いものを切っているのであれば、だんだん切れなくなるということも納得しやすいのであはるが。

ということを考えた時に、いわゆる「こみゅにてぃ」な世界で私を攻撃して来ていた「名無しさん」のことを思ってみた。誰も「そんなの気にならないでしょ」とか「無視してりゃいいんだよ」とか言うわけだし、私としてもこいつらをバッサバッサと切り捨てることは、結構快感だったりした。まぁつまりは「剃刀で髭を剃る」ようなものである。こっちよりもいろいろな点で「下」でしかない「名無しさん」なので(本当に私より偉いなら、実名でもいろいろ言えるだろうけど、そんな人達からメールなんてもらったことは一度もない)、切ったところでどうということはない。ところが剃刀と同じで、明らかに柔かいものばかりを切っていても、結局刃が切れなくなってしまう。

柔かいものしか切ってないからと言って、刃がずっと切れるかと言えばそうではないのである。