心が病んでいる

http://www.zakzak.co.jp/top/2004_06/t2004062601.html
これによると、先日の5歳児投げ落としの娘は、心が病んでいたそうだ。

何にせよ病というのは不幸なことで、特に精神的な病というのは、一見マトモそうに見えているという点で、また内容によっては周囲に理解されにくいため、不幸の度はかなり大きい。怪我や身体障害(私は「障碍」という字は使わない。このことは「電脳騒乱節」にちょっと触れられている。そこに出て来る「Oさん」とは私)の類は見た目もそれっぽいので理解されやすい。先日私が入院した時は、髭も剃らず髪もとかさずだったのだが、これも「点滴がないと病人らしくない」ということから、病人らしさの演出だったのだ。「らしさ」というのは理解を受ける上で重要である。

とは言え、最近周囲に起きていることを見ると、「心が病んでいる」ということについて、果してどこまで「理解」して良いのかと思う。確かになかなか理解されて来なかったのは事実である。しかし、その反動からか最近は「過剰に理解」している世界も少なからずあるのだ。またそういったものを理解するのが「美徳」とされている世界も少ならずある。我々の業界には鬱病傾向の人が少なくなく、実際に鬱病と判断されている人も少なくない。そのため、そういった人達を理解しないことにはやって行けないという事実もある。

鬱病を例にするなら、多くの鬱病は神経伝達物質の代謝異常である。つまりはまぁ「心が病んでいる」というのとは厳密な意味は違う。もちろん原因は精神的なものであるらしいのであるが、結果は代謝異常なのだから、普通な意味での病気だ。なので、周囲がそれを理解してやって、またーり薬を飲んでいれば、治るものは治る。

ということは理解した上で、果して「過剰な理解」が必要なのだろうかと思うのである。

たとえば、ある種の「かまってちゃん(かまって君)」にとって、いわゆる「心が病んでいる」ということと、それを「理解」してくれる周囲というのは、非常に快適な状態なのである。ちょっとわがまま言っても「理解」してもらえるのである。「心が病んでいる」という状態に至る過程を考えてみれば、たとえば「周囲が自分のわがままを聞いてくれない」みたいなころが原因であるということは少なくない。つまり、その「病」である限り、周囲はそのわがままを聞き、かまってくれるのである。

鬱病がいかに神経伝達物質の代謝異常だと言っても、それに至る過程では、

喜怒哀楽が表現できにくい状況 -> 表現できないなら感じないようにする -> それによって喜怒哀楽に関する神経伝達物質の代謝が少なくなる -> それが常習的になる

といったもの(もちろん一概にそうではないが)であるから、治療の時には薬だけではなくて、精神的治療も必要である。だから、本人に「治す気」がないといけないのである。

ところが、「かまってちゃん(かまって君)」はそれを治してしまうと周囲は以前の冷たい状態になることがわかっている。だから治す気がない。その結果、ずるずるといつまでも治らないということになる。

鬱病はよく「心の風邪」とか言われる。それは確かに正しいし、周囲はそれを理解してやる必要があるのは当然である。「これはヤバいから早く治そう」という意思のある人にとってはその理解は大切である。しかし、それが快適な状態になってしまっている人も少なからずいるのである。そのことを考えると、「過剰な理解」が果して良いことかどうかのか。

というのは主に「鬱病」についての話であるが、別にこれは鬱病に限らない。「心が病んでいる」人を社会が理解することは大切である。しかし、それが快適な人にとってはその理解は治療の妨げになってしまう。

わかりやすい例で言えば、日本では「酒の上」のいろんなことは、かなり「理解」してもらえる。破廉恥系の犯罪(痴漢とか軽犯罪の類とか)は酔っていたということがあれば刑が軽くなる傾向にある。しかし、それを悪用して「酔った勢いで」という犯罪も少なくない。果してそのような「理解」のしかたが、社会にとって有益かと言えば、そうではなかろう。