中村氏の大罪(2)

中村氏の大罪の第2回は、「同僚に対する罪」である。

最初に言っておくと、私は彼の功績に対しては賞讃のみする。確かに今となっては既に古い技術になってしまっているとか、単なる製法の工夫に過ぎないとかいろいろ言われているが、彼の行った業績は素晴しい。今まで多くの人達が見捨てていた材料を使って、実用になるものを作ったということは、それが今となってはどうでもいい技術であるにせよ、「やった」という事実は尊いものだと思っている。「できないと思われていたことをやってみせる」ということは、「無から有」を作ったということだからだ。
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「スタイル」の根底にある彼我の違い

中村氏の大罪(1)の途中からいきなり、「日本スタイル」という話が出て来たので、ちょっと解説。

チラと書いたのであるが、日本とアメリカの哲学の根底にあるものはかなり異なる。また、アメリカとヨーロッパの根底にあるものもかなり異なる。日本と韓国はかなり近いが、中国はかなり違う。これはおそらくは生活様式や起かれた環境が違うのであろう。
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慎太郎芥川賞斬り!!「非常に安っぽい小説」

慎太郎芥川賞斬り!!「非常に安っぽい小説」

この人、小泉(首相)を「パフォーマンスだ」と批判しながら、自分も結局同じことをやってる。

現代は政治家が人前で好き嫌いをはっきり言うと、人気が得られる。「いろんな人に好かれる」のが良いように見えるが、だいたい「1人通る選挙」の場合は、1/3くらい得票できれば通ってしまう。

人の好き嫌いは有限であるから、何かを好きでも嫌いでも、だいたい同調する人はいるもので、人が喜びそうな好き嫌いを言えば、60%くらいまでは 支持を得られる。この60%は曲者で、どんなに工夫してもなかなか超えられないものらしい。しかし、「自分的ベスト」であれば60%が得られるものでもあ るらしい。

となると、こういった「大衆が喜びそうな好き嫌いをはっきり言う」ということは、非常に支持を受けるのには都合が良い。選挙で60%の得票を得れば当然通るわけだし。

ということを頭に置いて、彼の言動を見るというのは、なかなか趣きがある。彼の刃は彼自身に向いている。

こだわり?

こだわりすぎ

実は先週昼飯を食った店。味はそう悪くはなかった。棚に各種化学調味料が並んでいるのは萎えたが、あまりそんな感じでもない。

気になったのはメニュー。いろんなものがあってその多くに「こだわりの」がついていること。

こだわりは結構だが、そんなにいろいろこだわってはいられないだろうと思うのだけど。

「青色LED8億4000万和解…中村教授と日亜化学」

http://www.zakzak.co.jp/top/2005_01/t2005011119.html

こんなの中村教授敗訴でいい… 本当はそこまで徹底的にやって欲しかった。

彼が苦労したのは理解する。しかし、その苦労を「全部俺様がやった」という態度は不愉快の極み。「社命に従わずにやった」と言うけど、機材は会社 のものだし、資料は会社にあるのだし、そもそもそれをやっている間に収入がなくなったわけでもない。その成果を実際に金にしたのも彼ではない。

この風潮が進めば、いずれ日本から「技術」は滅んで行くだろうし、プロプライエタリな技術者はより厳しく管理されるようになるだろう。彼は金を手にしたかも知れないが、それは他の技術者がこれから手にするであろう金を彼が奪い取ったようなものだ。

オタクが嫌い

またマイミクが減りそうなネタ。

私はオタクが嫌いだ。特にアニオタが嫌いだ。

ちゃんこ増田虎

以前日記に書いたけど、もう本当にどうしようもなく嫌いで、生理的な嫌悪感を感じるくらい嫌いなのだ。会社が秋葉にあるから秋葉で生活しているけれど、こいつらの姿を見るのが嫌なものだから、なるべく電気街の方には行こうとしない。
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チーズその後

チーズのようなものを作ろうとしてやってみたことは前に書いた。今日はそれを試食してみた。 はっきり言って大成功。かなりうまいチーズができた。

元がヨーグルトなので、脱脂されていて、脂肪分のあるチーズではないのだが、それでもチーズの風味のするおいしい固形物ができた。脂肪分がないので旨味にはちょっと欠けるが、ヘルシーだ。世の中そんなナチュラルチーズもあるから、これはこれで立派にチーズだ。

こうなると、いろいろ工夫がしたくなる。熟成の期間を延ばすとか、温度を工夫してみるとか。あるいはクリームを増強してみるのもいい。

ハムに続く遊戯ができた。

ひきこもり

私は普段テレビを見ない(家にあったのは、とうとう人にやった)。ラジオもまだ完成してないので聞かない。新聞も取ってない。ニュースはどうするかと言えば、もっぱらネットだ。必要な情報はとりあえず入って来る。

ところがネットと言うのは、情報を見る前から情報の選択をしている。つまり、自分が必要と思う情報しか得ようとしない。だから、自分の興味がある ことについては不自由はないが、自分があまり興味を持ってない、積極的に情報収集しようと思ってないことには疎くなってしまう。そんなわけで私は世事に疎 い。

以前はそこまでは疎くなかった。テレビを見ることは以前からもそうなかったので、そんなに変わらない。それ以外の部分が違う。

昨日電車に乗っていたら、それが何か気がついた。渋谷に住んでいた頃は、渋谷秋葉間でいろんなものを見たし、電車の中の吊り広告も見ていた。その辺が根本的に違う。

週刊誌の吊り広告は電車の中での格好の暇潰しだ。書いてあることはどうってことはないが、どうせそこで興味を持ったところで週刊誌の方に書いてあ ることは、吊り広告以上のことはない。だから、吊り広告で十分情報を得ることができる。私は、吊り広告を見ることで世の中の動きを知っていたのだ。

また、外を歩くと、いろんな物や人を見る。そこから得ていたものはどうも少なくない。その証拠に、外を歩いた昨日は日記のネタが多い。ぼーっと電車の外をながめたり、人々の姿を見ながら、考えたり妄想したりするということは、いろいろ思考を活性化させる。

とか考えると、普段の私の生活は外の情報に触れず、また外の空気の中で考えないという、ひきこもりそのものであったと反省した。もうちょっと街をぶらぶらしないといけないな。

と同時に、「ひきこもり」というものの未来に控えている、いろいろな恐しいことに思いが及ぶ。