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萌え系ストーリーをシリアスなSFにしたものだと誤解して(だって「アンドロイドに恋する」云々って宣伝してるんだもん)見に行く。私はあまり見てない映画のネタバレは見ないことにしているので、ストーリの展開や詳細は知らずに行くのだ。
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中国影奇談

http://kagekidan.at.infoseek.co.jp/index.html

中国地方の怖い話を集めたサイト。この手の話はあまり好きでない(怖い)くせに、ついハマってしまい、つい全部見てしまう。そう。この前の樹海の話もそう。いまだに首吊り死体の顔が浮んで来る(;_;)

このサイトは適度に茶化してあるので、そんなに恐くないとも言えるが、やっぱり怖い。面白かったのは、「姫山伝説」である(山口県の都市伝説)。

> 『美しく生まれなければあの人と添い遂げられたものを・・・。今後この山の見えるところで生まれた女は皆不美人になればいい・・・。』

迷惑な姫だ…

美容院

髪が伸びたので切りに行く。

前に渋谷に住んでいた時の美容師さんがいる店なので、池尻である。渋谷に住んでいると池尻は微妙に遠い(ギリギリ歩く距離だ)のだが、秋葉からだと電車なのでそう遠くない気がする。

例によってブリーチをするのだが、ざっと3時間もかかる。地毛が黒いから時間がかかる。

その時に美容師さんに、「生越さん髪黒くなりました?」と言われる。前より黒い気がするらしい。これと言って心あたりは高脂血症の薬と、毎日1個づつ食っている玉葱だ。もしかして、玉葱には髪の毛を黒くする作用がある?

もっともブリーチしてしまうから、黒くなっても嬉しくも何ともないのだが。

「サーバ」に対する誤った認識

http://tmaeda.s45.xrea.com/20041101.html

ずっくんの日記で発見。

主張されていることは、ちゃんとサーバ管理した経験がある者なら至極もっともで、当然のことが書き連らねてあるだけ。これについて私は何ら異論はない。

気になるのは諸々の「反論」。この文章は非常にバランス感覚のある、事実に謙虚な文章なのだが、反論している人は「自分の経験が全て」という感じ
の人達である。「そりゃあなたがたまたまうまく行ってるんでしょ」と言いたくなる例や、「自分の詳しい××についてこの文章はナニだ」みたいな主張がされ
ていたりする。元の文章がバランス感覚に満ち、事実に謙虚であるがゆえに、たいていの反論がイタく感じられる。

バランス感覚があるものというのは、極端を好む人達(ヲタに多い)にとってはハンパなものでしかないというのは確かにそうだが、プロはある意味バランス感覚が全てだったりするんだよね。

2007年問題

「2007年問題」については、日経コンピュータ参照のこと。

私は

http://itpro.nikkeibp.co.jp/members/NC/ITARTICLE/20041027/151814/

にある有賀氏の意見が一番2007年問題の本質を突いてるような気がする。また別の話題ではある

http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/NC/NEWS/20041105/152184/

というのもある。

これらとは別に私の意見。

私もかけだしの頃は、勘や経験や根性でシステムを構築するなぞナンセンスだと思っていたし、それよりは技術や科学や計算が重要だと思っていた。若い頃はもちろん勘や経験や根性はあまりないわけだから、技術や科学や計算でやって行くべきであると思う。

ところが、システムというのは人間が使うものであり、人間の作るものなのだ。つまり、目標も経過も随分とあいまいなものである。

現象をモデル化する時、厳密にモデル化して厳密に解くことができればそれがベストである。しかし、それができない時には、適当にモデル化して適当に解く方が安定性が高いことが知られている。厳密にモデル化して適当に解くのでも、適当にモデル化して厳密に解くのでもいけない。モデル化と解法のバランスが重要なのだ。

# cf. 「有限要素法へのガイド」戸川隼人著 P.3〜

となると、元々あいまいな人間が使うものを、厳密に定式化してもあまり意味がない。むしろ「えいやっ!」みたいなことの方がうまく行くことも少なくない。その「えいやっ!」というのは勘や経験で行われるところの、「適当なモデル化」である。こういったことは、なかなか文書化できない。

件のページでは文書化されていないことがかなりヤリ玉に挙がっているのだが、文書化はどうやっても限界がある。「録音」ではライブの興奮は100%伝えられないのと同じようなことだ。いかにHi-Fiを目指しても、しょせん録音は録音。それを超えるには受け手の想像力を要求してしまう。しかし、想像力を養うには経験が必要になってしまう。

とか考えると、技術や科学や計算でのアプローチをより活きたものとするには、「経験を積め」ということになってしまい、結局最初の話にもどってしまう。その辺が2007年問題の本質なんだろうなという気がする。

地震

今朝方また地震があった。会議してる間だったのだが、みんな揺れに気がつき、会館の人達の騒ぐ声が。

あんまり誰でも書きそうな時事ネタは避けることにしているのだけど、今回の一連の地震は自分でもいろいろ思ったので、ガス抜きにちょっとだけ。

私にとっての「最初の地震」は、茨城あたりが震源の地震である。晩飯の用意をしてる時に結構揺れ、「あー地震だ」と思いながらガスも止めなかったので、ちょっと反省。珍しくつけることのないテレビをつけて、「結構大きかったのだな」と納得したり、部下Hから「電車が止まった」というメールを受けたり。それなりにインパクトがあった。

それからしばらくして、新潟の一連の地震である。これは会社にいる時に揺れて「かなりデカいな」と思っていたのだが、実際大変なことになっていた。絶対的な大きさは実はあまり関係ないのだが、「そこそこの揺れが何度も」というのが、ちょっと困りもの。経験的にああいった揺れ方だと、「ちょっと離れたところで大きな地震」なのだけど、案の定だった。

困りものと言うのは、うちの家は蔵前橋通りと昭和通りの交差点に近い。なので、大型トラックやトレーラが通ると揺れる。地震まではあまり気にしてなかったのだが、夜寝ている時にはふすまがカタカタと音を立てるくらい揺れることがあるのだ。このカタカタという音は、もちろん地震の時には結構していたわけなので、私の脳内では「カタカタ鳴ると地震」なのである。

私は新潟方面にはそんなに知人もいないので、ある意味「野となろうと山となろうと知ったこっちゃない」立場ではあるのだけど、やはりいろんなことがあると気になる。となるとついでに想像力が働いてしまって、「揺れたらドキドキなんてもんじゃないだろうな」と心配してしまうのだ。

私はあまり激しい地震を経験したことがないので、「震度5」と言われても机上のことでしかない(ちょっと前の山陰の地震の時は私は東京にいた)。でも3や4は経験があるし、震度5は「松竹梅」となっているくらいだから、さぞ揺れることなのだろう。また、その揺れで家やら山やら潰れたのを見ていれば、「揺れるイコール生命の危機」となっている人も少なくなかろう。そりゃ震度3とか4でもキャーという悲鳴と共にパニックに陥った人達の阿鼻叫喚の図が…

とかということを想像してしまうのだ。「揺れるイコール生命の危機」という図式がなければ、「また地震かぁ。もう慣れたよ」という人もいるだろうが、「直面した生命の危機へ直結した事象」に慣れるのは難しかろう。ということまで思う。そして、その想像でドキドキしてしまう。揺れを感じるともちろんドキドキなのだが、ふすまがカタカタ言ってもドキドキだ。

そのドキドキで心臓に悪い。

学ぶべきことが多過ぎる… orz

freshmeatを見ていたらumbrello UMLとゆーのを発見して、UMLを書くにはこれを使うかなーと思い立つ。aptで入れて動かしてみると、結構いい感じに動く。ちょっといたずら書きをしてみて保存しようとすると、拡張子がXMIだ。「ほーこいつはXMIを作るのか。dia使うよりずっといいじゃん」と感心する。
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みかちゃんフォント

お仕事絡みでちょっとフォントのことを調べていたので、「みかちゃん(http://www001.upp.so-net.ne.jp/mikachan/)」を見てみた。

「みかちゃんニュース」には、みかちゃんフォントを使った製品や物についていろいろ書いてある。作者は素直にあちこちで使われていることを喜んでいるようだ。また、それは自分のところに報告があったものばかりではなく、他人に教えられたものも多い。つまり、「自分の知らない間に自分の作ったものが使われている」ということを素直に喜んでいるのである。

何かと言えば権利主張やらライセンスやらとうるさい世の中だけど、元々フリーなものを作った時は、こんな「無邪気」な喜びがモチベーションの源泉ではなかっただろうか? それがそこそこ広まるに連れ、何か自分は「偉い者」になったかのような錯覚をして、強く権利主張をしたがるようになってしまう。

という中にあって、そこそこ有名になってしまった「みかちゃん」が、無邪気な喜びに満ちているのを見ると、とてもほっとした気分になる。

カテゴリー: OSS