おごちゃん的視点のページ

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Last modified: Fri Apr 20 07:38:37 JST 2001

このページは私の感じたことをそのまま一方的に書いたものです。このページ について好意的な感想 は歓迎しますが、 批判的な意見 を戴いても、黙ってDします。

この文章は基本的に「誹傍中傷」の類だと思って読んで下さい。書いてる方と しては、誹傍中傷のつもりはなく、いたってまじめに書いているつもりですが、 「おごちゃんの誹傍中傷だ」くらいに思っておいた方が当事者の心の平安が保 てるでしょう。

警察

2001年4月20日

私の家は渋谷区円山町。簡単に言えば、ここは渋谷のラブホ街の真中である。 回りはもちろんラブホが立ち並んでいる。

ラブホのあるところには、ホテトルのチラシがあるのは、東京の常識である。 いや、東京に限らず、多分日本の程々の都市ならあるだろう。この是非につい ては、論じるつもりはない。

御他聞に漏れず渋谷でもそうである。他とちょっと違うのは、以前の渋谷では、 1枚もののチラシはあまりなく、それをいくつか束ねたような冊子になったもの が、電話ボックスに置かれていたことである。おかげで他の土地のそれのように、 電話ボックスの壁をホテトルのチラシが埋め尽しているということはなかった。 持ち帰りたい人はそのまま取ればOKだし、用がない人はチラシの内容を見なくて も済んだ。わりといいシステムだったのである。

ところがそんな渋谷に

異変

が起きた。それは去年の年末の頃であろうか、これらのチラシやそれを配布して いる業者に

手入れ

が入ったのである。それもかなりしつこく行われたため、電話ボックスの冊子は 完全に姿を消した。まぁ街の風紀を気にする人には、歓迎すべきことだろう。

ところが、人間の欲望、特に性欲と金欲は留めることは出来ない。程なくして、 チラシは復活した。それも、他の地と同じような1枚ものとしてである。

最初は申し訳なさそうに、電柱に数枚貼られていただけであるが、年が明けた頃 から増え始め、今やそこらじゅうに貼ってある。支線(電柱を支えるワイヤーの こと)にズラリと貼られた様は、まるで

ブロントザウルスの背中

である。とにかく、そこらじゅうにところ構わず貼られている。そして、今や電 話ボックスにまで進出している。1枚ものとなって。

1枚もののチラシは糊や両面テープで貼られている。電話ボックスなぞ、1枚1枚丁 寧に貼ってある。つまり、持ち帰りたい人は剥がすのが面倒だし、用がない人は 見たくなくても見ることになる。以前は電柱等には貼られていなかったのだが、 これもそこらじゅうに貼られていて、興味がなくても目に入る。おまけに勝手に 剥がれたりしていて、道に結構落ちている。状況としては、明らかに

以前より悪い

のである。それもこれも、結局のところ業者を完全に潰さないで、目に見えるチ ラシを片付けるという、安易な解決に走った

警察の間違い

である。業者がなくなった結果としてチラシがなくなれば、何の問題もなかった はずである。その正しい順序を踏まずに目に見える成果だけを追及した結果、以 前よりも悪くなったのである。以前は電話ボックスの中だけの問題だったのが、 今や街全体にゴミを増やしてしまっている。この責任を取る気はあるのだろうか?

話変わって、表参道のことである。

表参道には、露店が結構並ぶ。それも、いわゆるお祭りの時にあるような正式の 露店ではなく、適当にシートを敷いてその上に商品を並べるといった、

乞食の隣り

のような形態である。売っているのはいろんなもので、何やら怪しいものがあっ たり、珍しいものがあったりして、見て歩くだけでも楽しい。なんとなく

フリーマーケット

みたいで風情もある。田舎ではあまり見ないので、都会的な感じもして、なかな かいい感じである。

しかし、彼等は露店を出すのに必要な、道路使用許可なぞ取ってはいない。つま り、警察に手入れを受ける対象なのである。

そこで優秀なる日本の警察は、手入れを行う。と言っても法治国家の日本である から、いきなりお縄にするとか追い立てるとかするのではなく、

もう二度としません。ごめんなさい

という誓約書を書かせるのである。まぁ結果として追い出す方向で物事をやって いるのである。

露店は明らかに道路の不法使用であり、交通の邪魔にもなる。だから、それを 取り締まる。ここに何の間違いもない。彼等がいなければ、明らかに道は広く なる。だから

警察には何の間違いもない。

しかし、ふとその隣に目を向けると、不法駐輪の自転車はあるし、バイクもあ る。そして、そのうちの多くは点字ブロックの上をまたいでいる。露店は点字 ブロックよりも車道側にいるので、点字ブロックの邪魔にはなっていないが、 不法駐輪は点字ブロックの邪魔になっている。おまけに、これら不法駐輪は、 風情でも何でもない。

単なる邪魔

でしかない。つまり、取り締まりの緊急度としては、

不法駐輪 > 露店

のはずである。しかし、不法駐輪については、ほとんど何もされていないのが 現状である。他のところにあるような、「撤去しないと強制撤去するぞ」とい う札すらない。放置されたままである。

風情として多くの人に喜ばれる露店を排除するヤボを行いながら、邪魔でしか ない不法駐輪を放置する。どうもその感覚が理解出来ない。これは順序の間違 い以上のことではなかろうか。

引退宣言

2001年3月8日

あと1ヶ月程で、私の日本Linux協会 会長という役が終わる。これを機会に当分この手の活動はお休みしようかなと いう気がしているので、ちょっと寂しいかなとも思っている。

と、同時に、かなり

せいせいしている

のも事実だ。やっぱりガンガンやるには、金が儲かろうと儲かるまいと、それ が目的であろうとなかろうと、やる気のベクトルが同じ方向で同じ大きさの集 団の方が楽だ。何かをやるのに、一々

空気を盛り上げる

努力をするのは、時間とエネルギーの無駄である。やっぱりエネルギーは、

これからやろうとしていること

に注ぎたい。間違っても2ちゃんねる のような、

無責任に匿名でゴチャゴチャぬかす馬鹿ども

とのバトルにさくようなことはしたくない。これでやっとLinux(ってゆーか、 自分の理想とした開発環境)でやりたかった

楽しいシステム開発

が出来ると思うと、理屈抜きに楽しみだ。10年も寄り道しちゃったけど、まぁ 無駄な寄り道ではなかっただろうし。

学生

2001年3月2日

学生の就職セミナーみたいなのの講師をやった。地元就職のことでやっている せいかも知れないけど、

あまり精気が感じられない

もうちぃと目を血走らせてもいいんだよ。今時の就職状況だと。

その講演の時にも話したんだけど、自分で待ってて夢を叶えてくれるような会社 なんてのは、松江のような田舎には

ない

のだよ。いやそれは別に田舎に限った話じゃなくって、日本中探してもそんなに はないだろう。月並な言い方かも知れないけれど、

夢な自分で作るもの

だし、自分で夢を持たなきゃ、誰も夢なんてくれないよ。

秋葉

2000年8月28日

顧問先の会社が秋葉あたりにある関係で、最近よく秋葉に行く。私はたいていの 業界人と違って、イマイチ秋葉には萌えないので、あまり行かなかったのである が、仕事なのでしょうがない。ついでなのでなんで行かないかと言えば、

あまり魅力がない

からである。普通のものを普通に買う分には、「さくらや」や「ビッグカメラ」 で十分である。今時では量販店でもボードを売っているので、 ぷらっとに用がある時くらいしか行 かないのである。ジャンクとかは秋葉でしか手に入らないし、嫌いではないのだ が、家の広さの関係であまりジャンクとお付き合い出来ないので、秋葉はますま す縁がない。

とは言え、最近は仕事の関係でよく行くようになった。そんな時に思うのは、

秋葉はヲタクの街になった

ということである。前は電気屋ばかり並んでいたのであるが、今はフィギアだの コミック屋だのが立ち並び、完全にヲタクの街である。

まぁ購売層のことを考えれば正しいのであろう。いろいろ考えれば、商売として は正しい。しかし、街の空気から言うと、

非常にマズい

それでなくても、敬遠されがちな秋葉にヲタク御用達の店が並ぶ。これでは、低 迷にあえぐ秋葉商店会(正式名は忘れた)にとってもあまり良くないことではない か? 街の雰囲気が悪い。

ヲタクなんてどうでもいい

から、あーゆーヲタク用に店は追い出した方がいいだろう。その方がこの街のた めになる。

何? 今回は暴言にも程があるって?

俺はヲタクは嫌い

なんだよ。

アドバイス

2000年6月17日

最近はいろいろなところでアドバイスをすることがある。また、それ以前から net newsやML等でいろいろなアドバイスをしていた。これらの多くは、

日本Linux協会会長

なんてこととは無関係に、エンジニアとしての経験がものを言っている。無論、

経験だけで話す奴はステ

なのであるから、理屈の裏付けを用意して喋る。そんなことは言うまでもないこ とである。

でその内容であるが、私はかなり辛口のアドバイスをすることにしている。なぜ なら、

あたりさわりのないアドバイスは無意味

であると思っているからである。いや、別に表現としてあたりさわりのないこと を使うことそれ自体は悪いことではないのであるが、そのようにしていると、

流されて終わり

なのである。だから、なるべく流されないように、あたりさわりのある話し方を するのである。あたりさわりのない話し方をしていれば、相手が怒るようなこと はないのではあるが、

流されるアドバイスは時間の無駄

でしかない。時間がたっぷりあれば、ゆっくり言い聞かせるようなアドバイスを するの悪くはないのだが、そんなに時間があるわけじゃないし、だいたい聞いて いる方は子供じゃないんだから、

多少むっとさせて自分で調べる

ようにさせた方が、本人のためである。

これは何も挑発的な表現を特別に選んでいるというわけでは、

ない

正しいことを正しいと言い張り、正しくないことを正しくないと言い張れば、間 違っている人はたいてい、

むっ

とする。それだけのことである。で、多少挑発的なスパイスを入れてあげれば、 辛口のアドバイスの出来上がりである。当然ながら、それには論理的な説明を付 けておく。挑発には、理論武装がなければ、

単なるflame

である。また、理論武装がなければ、そのアドバイスは

無意味

でしかない。まぁ、それを最初から使うかどうかは、戦略の範囲である。

ところが、わざわざそうやってアドバイスしているにも関わらず、挑発のスパイ スのせいでひっかかってしまうのである。かなり苦労して(無思慮で有効な挑発 なぞ出来るはずがない。挑発は常に計算の上で行われるものである)話を組み立 てているのであるが、挑発でつまづくのである。いや、そこで腹を立ててもらう のは、こちらの意図した通りであるからいいのだが、そこで止まってしまうのが 困りものである。

もっとも、ちゃんと論理的な根拠も示しているわけだから、感情的な部分だけで 反発して終わる人は、

結局それまでの人

ということなので、アドバイス自体が無意味だったというわけであろう。

ついでに付け加えると、私のものの言い方は、

断定的だ

とよく言われる。他の人はそれなりの理由があって意見を持っているのだから、 それも認めるような言い方をしろというのである。確かに、いわゆる

考え方

の類は、いろいろな方向性があるのだから、他の意見を否定することは必ずしも 正しい行為とは言えない。茶筒は上から見れば丸いが、横から見れば四角だ。こ ういった見方に属することは、仮に一見矛盾したことであっても、どっちかが正 しくてどっちかが間違いということはない。だから、

他説を否定することは間違い

である。

しかし、問題をエンジニアリングに限るなら、

異なる考えはどちらかが間違い

であることも少なくない。そうであるなら、自説は

絶対の自信

がない限り主張するべきではない。他人が正しかったら、それと違う意見という のは間違いであるからだ。逆に自分が正しいと確信があるなら、それを主張しな いのは、

誤りの放置

でしかない。だから、敢えて私が自説を主張するということは、すなわち他が間 違っていると認識している場合なのだから、断定的なのは当然である。

他説の受容

ということと、

誤りの放置

ということは、根本的に違うことなのだ。ところが、間違いを侵している奴に限っ て、その辺を混同しているものだから、自説を完全否定されると

寛容でない

と腹を立てるのである。まー、そんな奴にものを教えた私が馬鹿なだけなんだろ うと諦めるのではあるが...

週刊誌は廃刊せよ

2000年5月24日

久々の更新である^^

最近は東京にいることが多く、移動の時には電車である。私は電車の中で本を読 む習慣はないので、乗ってる間は吊り広告を見ることにしている。だいたいが週 刊誌は吊り広告以上の内容はないので、吊り広告だけ見ていれば情報的には十分 である。

そこで気になるのは、これら週刊誌がいかに

他人をいじめてネタにしているか

である。特に思うのは、

強いものイジメ

である。

今日見た例で言えば、 週刊読売の、

ズルイぞ、光通信・重田康光サン
株高値売り抜けで700億儲け、税7億円ぽっち

というものと、 アエラ のサーバーエージェントが電通に詫びを入れたという記事である。

前者をよく考えてみれば、別に

重田氏が悪いことをしたわけではない

単に自社株を売って儲けた。税制の関係で儲けた額のわりに税金が安かったとい うだけのことであり、彼が脱税したというわけでもなれば、何か抜け穴をつかっ たという訳ではない。単に

株関係の税制がタコだった

だけであり、彼はそれの恩恵にあずかっただけである。彼程の経営者がそれくら いのことに気がつかないのは、むしろそっちの方が問題であり、そうやってうま く節税出来たところで、彼がそのようなことを言われるスジアイなぞまるでない。 単に、ネタにされただけである。

後者にしても、単にビジネスの上であることなのだから、早い話が、

仕入担当者がヘマをやった

という話とどれだけの違いもない。普通の感覚で言えばこういったことは、

雑誌の記事にする方がおかしい

ことでしかない。

まぁ確かに彼等は成功者である。我々からすると、「そんなに金あっても使う暇 ないでしょ」と思う程の金がある。まぁ確かに

うらやましい

と思わないではないが、別に私が損をしたわけではないし、別に彼等とシェアの 奪いあいをやっているわけでもないので、彼等が儲けただけの話であれば、だか ら、そんなことは

どうでもいい

ことである。まぁ確かにヤジ馬的興味がないとは言えないが、彼等は今のところ 成功しているのだから、正当に書かれるべき記事はあくまでも

成功体験

である。この成功体験にしても、同じことが我々に出来るわけではないのだから、 これと言って参考になることは少ない。彼等のヘマは今のところ株価がイマイチ になったという程度のことしかネタとしてはなく、それにしても

勝ち負けは武家の常

なのであるから、事実とか事実関係に興味はあっても、ゴシップ的な扱いで色着 けされる必要はない。そのようなことで何かあっても、

雑誌で叩く

ような類の話ではないはずだ。

しかし、そのようなことがネタにされるということは、つまりはこれらは売れる ネタだと認識されていて、ネタにしているということである。

しかし、考えてみれば、日本のような平和な国に毎週あれだけページ数の、あれ だけの数の雑誌が出るだけのネタがあるだろうか? ありもしないのに、発行す るというノルマだけがあるから、こういった

無理やりのネタ

でページを埋めるしかないわけである。つまりは、

ネタがないからピカツーでもいじめっかぁ〜

ということであって、これらは、

学校がつまらないとイジメをやるガキ

と次元としては同じである。

別のことを考えてみよう。これらの記事の多くは、成功者の穴を責めようとする、 いわゆる

強いものイジメ

である。よく、

「弱いものイジメはやめましょう」

とは言うが、それは別に強いものをイジメていいということではない。さらに言 えば、強い弱いは相対的なものであり、いくら金持ちだと言っても、「発言力」 とか「社会的影響」とかで言うなら、マスコミの方が上である。つまり、

マスコミのやるイジメは全て弱いものイジメ

なのである。

つまり、これら週刊誌は

自分達の存在のために弱いものイジメをしている
卑怯な連中

なのである。そういった意味では、これら週刊誌がイジメの問題を記事にすると いうことは、

泥棒が泥棒を非難している

ことと等価である。よく週刊誌に

日本では出る杭は打たれるから云々

的なことが書いてあるが、それこそが週刊誌のやっている行為である。イジメに しても、週刊誌的体質が無関係であるとは言えまい。そのような害毒を撒き散ら すような雑誌は、さっさと廃刊にするべきである。イジメの元凶は彼等にもある のだから。

そういった観点で見れば、アエラ、週刊ポスト、週刊読売、週刊文春、週刊新潮 と言ったような、いわゆる「正統派ジャーナリズムです」といった顔をしている 週刊誌は、

エセ正義

でしかない。それよりも、アサヒ芸能、週刊実話と言ったような、

「俺達どうせイロモノ雑誌だぜ」

的な顔をしている週刊誌の方が、下手なオピニオンを持って ないだけいいように思う。彼等はつまらない正義面をしてないのだから。

それはともかくだ、お前達そんなくだらないことしていて、

楽しいか?

いや、まぁ楽しけりゃ他人の楽しみまでとやかく言う気もないが...


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