おごちゃん的視点のページ1997年3月分


青少年

1997年3月10日

 お仕事で上京してました。私の行くところは、秋葉、新宿方面なので、通常 は歌舞技町のカプセルホテルか、大久保あたりのラブホテルに泊ります。いず れも急な出張の時には便利です。


 と言う訳で、夜は歌舞技町をウロウロするわけである。客引きやら怪しい路 地やらといった田舎にはないものに遭遇出来るのがなかなか楽しい。歌舞技町 には怪しい店がいっぱいあって、色々引かれるものがあるのだが、どうも歌舞 技町のその手の店は、

高くてサービス悪い

ような気がするので、あまり行かない。行くのはせいぜいテレクラくらいなも のである。単にウロウロするだけであることが多い。

 ひととおりウロウロして、「もう夜遅いよなぁ」と思うような午前2時も過 ぎた頃に、なぜか

ルーズソックスの足

を目撃するのである。いい大人がルーズソックスなぞはいているわけがないか ら、これは基本的に

18歳未満

である。つまり、18歳未満の娘が堂々と、深夜の歌舞技町をウロウロしている わけである。

 私は基本的には中学入った頃から、自分の行動は自分で責任を取るようにす るべきだと思う。つまり、高校生にもなれば、

大人

になっていると思っているし、社会はそう教育するべきであると思っている。 だから、

青少年健全育成条例

などというものは、

クソ

であると思っている。好んで虐退するべきではないとは思うし、誰もが基本的 人権を侵害されない範囲で法によって保護される権利はあると思うが、そうか と言って、特別扱いする程のことはないと思っている。だから、そーゆー腐っ た条例を作る暇に、社会教育をどうするか考えるべきであって、妙な縛りを作 るのは、

責任転嫁

であると思っている。だから、深夜歌舞技町をウロウロしている高校生がいて も、それは個人の判断の中であるから、私はいっこうに構わない。

 しかし、現実の問題として、青少年健全育成条例は東京都に存在しているは ずであるし、高校生とエッチすれば、公式には取り締まり対象になる。一度そ う決めたなら、それらのことは

しっかり取り締まる

べきである。それが

法の下の平等

というものである。

 しかし現実はそうではない。深夜に高校生はウロウロしているし、わりと近 くに交番があるにも関わらず、お巡りはそれを取り締まろうとしない。これで は

法の下の不平等

であるから、物事の示しがつかないであろう。

 そうなってしまうのは、どちらかがナンセンスであるからである。個人的に は青少年健全育成条例の方がどうかしていると思うのだが。


クローン人間

1997年3月24日

最近羊や猿でクローンが出来たということで、

その技術を人間に適用する危険性

についげ議論されている。確かに遺伝的コピーが作られるということで、色々 な可能性が考えられるのではあるが、この議論を聞いていると、

ちょっと待て!

と思う。

 確かに遺伝的なコピーという手法によって、純人工環境で生命が作られると いうことは、気持ち悪いと言えば気持ち悪い。やる気になれば、

生命の量産

が出来てしまうのだから。とは言え、男の場合はやる気でやれば、

知らぬ間に子供が出来る

ことがないとは限らないのであるから、気持ち悪さのレベルで言えば大差ない かも知れない。しかし、議論している人々は、その辺のこともさることながら、

コピー人間が出来る

ということを心配しているのである。しかし、よく考えて欲しい。クローン人 間は、

遺伝的に同一

なだけである。そして、人格などというものは、

遺伝情報なんかで決定されない

ものである。無関係と言えるものではないだろうが、それが全てではない。そ の人の育った環境や、見たもの、感じたこと、そういったものが絡んだ結果と して、人格が形成されるのである。遺伝情報で人格が決定されるのなら、

一卵性双生児は同じ人格

などというとんでもないことになってしまう。そのような見方は誤っているだ けではなく、

失礼

あるいは、

人格無視

である。

 と考えるならば、仮に人間のクローンが出来たところで、人格の複製までさ れるわけではないのだから、特別にどうこう言うべき問題ではないように思う。

生命の勝手な量産

の危険性の問題を除いては。

ミニ四駆

1997年3月25日

最近子供達の間では、ミニ四駆が流行っている。うちのガキもやっていて、チュー ニングがどうこうとゆーことで色々楽しそうである。特に、このチューニング は、

おたく心を刺激する

ので、子供でなくてもやってみたくなるものである。そこで、子供に色々聞い ていたのであるが、そのうちにとんでもないことを知ったのである。それは、

純正以外のパーツを使ってはいけない

というルールの存在である。また、これは結局のところ、

タミヤ以外のメーカの存在の否定

のようなルールがあるのである。

例えば、モータはあまり馬力のあるものを使ってはいけないのだと言う。確か に馬力競争に走れば、重量が大きくなってコースに悪影響を出したり、やたら にでかい車体を作る奴が出たりして、不都合はあると思う。しかし、そのよう な規制をするのであれば、

車体総重量

あたりで制限を作りさえすれば、良いように思う。モータと電池の持ちはトレー ドオフなのだから、適当に二律背反になるようなルールを作っておけば、後は それぞれがどう考えるかの問題ではないかと思う。逆に割り切った設計として、

レース終了後には完全に空になる電力設計

にすると、なかなか技術的に楽しいと思う。

また、電極の抵抗を下げるとというのも、

技術オタク系親父

の考えつきそうなことであるが、どうもこの辺も

純正以外のパーツを使ってはいけない

ということで、公式戦には使えないものらしい。銀メッキだとか、OFCとかは 楽そうなのであるが、これもダメである。

その他にも、楽そうなオタク的改造は、ことごとくダメなのである。これでは 技術オタク系親父が楽しむことは難しい。単なる消費者になることしか出来そ うにないのである。

モータースポーツのF1の競技車両には、色々な制限があるものだそうである。 エンジン廃気量だとか、ガソリン消費量だとかは、きちんと規定され、その範 囲の中での性能を競うのが、

設計者のF1

なのである。これはレースを単なる馬力競争にするのではなく、「スポーツ」 として高めるために必須のものであると言う。確かに技術屋としては、厳しい 制約の中での性能競争の方が、

技術の誇示

には向いている。

ミニ四駆の

純正パーツ以外ダメ

は、これに一見似ている。確かに限られたパーツの選択枝の中から、最適なパー ツを選び出すのは、技術であるには違いない。しかし、私はどうも

それは違う

と思うのである。確かに技術を要する制約なのであるが、

創造的解決

を困難にする制約なのである。何しろ、自分でパーツを作ったり、タミヤ以外 のメーカが事実上存在しないのだから、結局のところ「どのパーツを選ぶか」 しか解決方法が与えられていないからである。つまり、F1のように

大枠だけ設定して、実装は各自に任せる

といった類のものではないのである。

結局これは、

未来の技術者の芽を育てる

といった類の創造的ゲームではなく、

底の浅いガキの遊び

に過ぎない。テレビゲームと同じような単なる消費的ゲームに過ぎないのであ る。うちのガキもそのうち飽きるであろう。
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