おごちゃん的視点のページ1997年2月分


体育会系

1997年2月10日

お仕事で、高校バレーの中継に行きました。普段は「クソガキ」であったり、 「コギャル」であったりする高校生も、コートの中では好少年好少女でした。 スポーツをしてる女子高生はかわいいし、男子高校生のバレーは迫力があった し。見てて楽しいのは女子バレーだけど、見てて面白いのは男子バレーですね。 まぁとにかく、なかなか良いものを見せてもらいました。こーゆー仕事ばかり だと良いのだけどなぁ。


しかし、いけないのは

コーチ

である。とくかく生徒を怒鳴る怒鳴る。いくら何でも、あんなに怒鳴る必要が あるのだろうか? とにかく見ていて

かわいそう

になって来る。あそこまで怒鳴れば、生徒は萎縮するのではないだろうか? 確かにスポーツは

勝つか負けるか

の世界であるから、真剣になるのもわからんでもない。小さな不注意が大きな 失点につながるわけだから、小さな不注意を責めるのもわかる。しかし、何で あんなに怒鳴ったり、文句を言ったりする必要があるのだ?

実は、

どうせそんなチームは負けるだろ

と思っていたのだが、どうもそうではない。コーチが怒るチーム程、勝ち進む のだ。もっと言えば、

チームの強さは、コーチの機嫌の悪さに比例する

と言っても良いくらいだ。これではコーチも怒鳴りたくなるのだろう。

古来、日本では

鬼コーチ

が評価されて来た。確かに怒鳴るコーチのいるチームは強い。しかし、それは 本当に良いことなのだろうか? 確かに

高校生はガキ

であることは否定しない。しかし、同時に

大人の入門

でもあるのだ。いくらチームが強くても、

コーチが怒鳴って言いなりになっている

なんてのが、高校生のスポーツであるのは、どこか変である。

工業高等専門学校

1997年2月11日

私は、松江高専の非常勤講師を やっている。情報工学科の5年生に「言語理論2」ということで、言語処理系 の実装という講義をやっているのである。今頃、その学生達は最後の期末試験 で苦しんでいることだろう。まぁ私の講義では期末試験はやらないので、他の 講義の試験なのではあるが。


と言うことで、彼らへの私の1年2単位の講義は終わった。そこで、彼らのた めに、また他の高専の学生のために、

はなむけ

の言葉を送ろう。

これを言うと、日本中の高専生とOBと教官を敵に回すことになるとは思うが、 私自身も高専のOBであるし、高専で授業をやったり、高専卒の新入社員に新 人教育した経験から、あえて彼等に言いたいことは、

高専生は馬鹿であるということの自覚

をして欲しいということである。これは別に彼等の学力を言っているわけでは ない。学力で言うなら、下手に大学の工学部を出た連中よりは、

100倍(当社比)マトモ

であると思う。だから、学力について言っているわけではない。また、頭が悪 いとも思わない。頭の悪い奴が入学出来て、卒業出来る程、

高専は甘くない!

からである。ではこれは何に言及しているかと言えば、

人間性

の部分である。もっと簡単に言うと、

世間を知っているかどうか

ということである。そして、いきなり結論から言えば、

高専生は世間知らず

なのである。それも悲しいくらいに。

元々高専と言うところは、

大学工学部程度が

高校の教程込みで5年間で済む

というのがウリである。これは、無駄と思われる教科を省いて、その分専門科 目を増やし、授業時間をギチギチに編成して必要なことを教え込むということ で実現されている。数学なんぞは、2年生(高校2年生と同じである)の前半く らいで高校の数学は全て終わってしまっているくらいの速度でやる。高校→大 学とゆー普通のステップしか知らない人が見れば、

ひえ〜

と言うことであろうが、やってみれば別にそれ自体はどってことはない。入試 のために変にこねくり回したことをされるよりは、本質の部分をどんどんやる わけなので、精神的にも無駄がない。

いっそ高校もそうすれば良いのに

と思うくらいである。

しかし、その代償として、ゆとりというものがないのである。とにかく入学し てから卒業するまで、ほぼ全コマが詰まっている。高校生のようにグレること は、高専生のプライドが許さないらしく、わりとマジメに学校に行くし、大学 相当の年齢(4,5年生)になっても、高校と同じような調子でコマが詰まって いるし、色々な理由から留年は出来にくいし、授業をサボるのも簡単ではない ので、この年代にありがちの、

昼間ふらふら遊びに出る

とか、

とにかくバイトにハマる

ということは出来ない。これはつまり、重要な

社会勉強

ということをする時間がないということである。だから、とにかく高専生はウ ブなのである。上から「白」と言われれば「白」だと言うし、「黒」と言われ れば「黒」と言う。とにかく、批評だの批判だのということはしようとしない し、出来ないのである。「○○は××である」という時に、理由を聞けば、

テレビでそう言っていたから

みたいなことを本気で言ったりするのが、高専生である。とにかくウブなのだ。 学力はそこそこ揃っていて、上には従順。かつての日本企業がまさに求めてい た人材そのものなのである。その証拠に、かつては高専を出れば、とにかく就 職はあったし、それがウリだったのである。

しかし時代は変わった。企業も単に従順なだけの人材ではなく、

主体性

を持った人材を求めるようになったのである。また、社会が高度化した結果、 学校の教育はあまりアテにはしないで、新人教育の時にやってしまう。そうな ると、高専生のウリの部分は、どうでも良くなってしまっているのである。企 業はもはや、学力があって従順なだけがとりえの高専生は必要としなくなって いるのだ。ところが、高専と言うところは、

主体性が育つ機会がほとんどない

のである。選択科目を上手に選択して時間を作ってバイトをするとか、落とし て良さそうな科目を落として遊ぶとかという、

自分の頭で戦略を考え、

リスクを計算しながら行動する

といった、現代が要求するようなスキルを持つ機会がないのである。これはあ る意味、非常にヤバいことである。

そういったわけで、高専を卒業する連中は、ぜひとも

高専生は世間知らず

ということを自覚して行動して欲しい。大卒に対する高専卒のハンディとは、 実は

学生時代、遊んでいない

ことであるということを認識し、とにかく遊ぶ努力をするべきである。その中 で、

自分の頭で戦略を考え、

リスクを計算しながら行動する

ことや、

人生の楽しさ

を学んで欲しい。また、高専教官は、いたずらに学生のエリート意識を煽るの ではなく、高専生は世間知らずであることを留意するように注意して欲しい。 また、出来れば

主体性を養う

ことを、教育過程を作る上での課題として考えて欲しいものである。


NTパープリンの恐怖

1997年2月20日

これについては、こっちを参照のこと。


ネチケット

1997年2月23日

ネットワーク上のエチケットをネチケットと言うらしい。また、ネットワーク 上の市民はネチズンと言うらしい。


私はこの両方の言葉が大嫌いである。なぜなら、これらの言葉の裏には、

ネットワークは特別な世界

という意識が見え隠れしているからである。つまり、現実社会とネットワーク 上の社会は別だということである。これは、はっきり言って

間違っている

と考える。それは、

ネットワーク上の社会は、

現実社会の単なる投影

に過ぎないからである。ネットワークが特別な世界であるというのは、パソコ ン通信オタクどもの偏狭な幻想に過ぎないのである。ネットワークは特別な世 界ではないのだ。また、そうでなくては一般市民が使えないではないか。

例えばネチケットについて考えてみよう。ネットワークだからと言っ て、特別意識するエチケットが存在するだろうか? 現実社会で許されないこ とは、ネットワーク上でも許されないのである。違いのようなことを敢えて言 うなら、

ネットワーク上でちょこっと言ったことは、

街中を宣伝カーで歩いたよりも多くの人に届いている

ということくらいなものである。これとても、

言葉は口から出たとたんに、

自分で歩き初める

と言ったことと同じようなものである。だから、結局のところは、ネットワー ク上だからと言って、特別な倫理なぞ存在しないのである。と言ってしまうと、

Internetの多様な価値感について言及しないのか?

と言う人もいるかも知れない。しかし、それとても、結局現実社会に於いても 同じことである。ネットワークが特別なものではないのである。違いがあると すれば、それはどちらかが

間違っている

だけなのである。

そうであるが故に、ネチズンなどと言う言葉もナンセンスなのである。 なぜなら、ネットワーク上に居る人々は、現実社会の普通の市民に過ぎないか らである。現実社会と異なる価値感は存在しないのだし、実際に普通の市民が いるだけなのだから、ネチズンなどと言う必要はないのだ。

ついでに言えば、最近ネットワーク上の犯罪がどうこうとゆー話がよ くある。猥褻やら暴力やらが無節操にInternet上に存在することが、どうもお 上には面白くないらしい。そこで、どうもネットワーク上の犯罪を取り締 まる法律を作りたいらしい。しかし、これもネチズン同様に

ナンセンス

である。そもそも、電話上の犯罪を取り締まる法律なんてのは存在し ていない。それは、犯罪は常に現実に行われるものであって、電話上 であろうとなかろうと、現実の法律で処罰が可能であるからである。ネットワー クと言うものは、それと同じようなものなのである。ネットワーク社会が単に 現実社会の投影に過ぎないのであれば、何も特別にネットワーク社会用の法律 なぞ作る必要はないのである。現実社会で犯罪が行われた時に、現実社会用の 法律で裁けば良いのである。


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