おごちゃん的視点のページ1997年6月分


対NTT交渉術

1997年6月22日

私はいわゆるInternet屋なので、仕事がらNTTとよく付き合うことになりま す。そうしていると、どうも色々腹の立つことも起きます。


何がいけないと言って、一番困るのは

怒鳴らないと仕事をしない

ということである。もちろん長い納期に我慢が出来るとか、待つのが好きだと か、多少損をしても構わないとかとゆー人は、何も怒鳴る必要がない。ところ が、同じコストをかけてでも、少しでも良い条件になって欲しいのが人間の性 (さが)とゆーものである。そのためには

怒鳴る

ことが一番良い方法である。NTTは(まぁ限った話ではないが)こっちが要望 を出した時に、色々理由出して難色を示すことがある。そこで怒鳴るのである。 あるいは工事期間には標準があるのであるが、それを何とかして欲しい時に怒 鳴るのである。そうすれば、 などのことが可能になるのである。

まぁ、実はこれは知っている人にとっては常識なのである。しかし、だ。こ れは明らかに不公平である。何しろ

声のでかいものが勝つ

そのものなのである。怒鳴り方を心得た者(実は私も含まれる)にとっては、非 常に都合が良いのは事実なのであるが、それを知らない人にとってはロクな話 ではない。また、怒鳴ったくらいで解決するくらいなら、

最初からちゃんとやっとけ!

とも思う。

まぁその辺を始めとして、どうもNTTの感覚とゆーものは、民営化の前後 の頃からおかしい。何がどうおかしいと一言で言うのは大変なのであるが、ざっ と思いつくことを挙げると、

あたりであろうか。ま、それぞれの説明はしないが(あまり具体例を挙げてし まうと、それこそシャレにならない)、NTT相手の交渉や営業等をやったこ とある人なら、納得することであろう。もうちょっと何とかして欲しいところ である。


茶髪

1997年6月23日

実は4月末でTV局 を退職しました。で、今勤めている会社は自分達で作った会社なので、サラリー マンと言えばサラリーマンであるが、そうでないと言えばそうでないようなも のです。で、前の職場に入る前にはを剃ったの であるが、同じように今の職場に入る時に何かしようと思って、

茶髪

にしてみました。
茶髪にした動機は、「暮しの手帖」の対談の中で、「子供が茶髪にしたらど うするか」的な話題の中で好意的でないコメントがあったからである。そのこ とにちょっとした抵抗をしてみたのである。

子供どころか親がやっちゃうもんね

とゆーノリである。また、元々前髪に白髪がまじっていたこともあって、

白髪染めするくらいなら

とゆーことで着色してみたのである。

最初はオレンジ色のヘアマニキュアで着色したのであるが、元々髪が黒いので、 あまり色乗りが良くなかったということもあって、ブリーチ脱色してみた。こ れで見事な茶髪となった。

茶髪にすると、色々見えなかったものが見えて来る。やはり一番の収穫は

人を外見で判断する奴が多い

とゆーことである。まぁそーゆー連中は取り引きしても、あまり良いことがな いので、むしろこっちから願い下げである。だから、ある意味では、そーゆー 連中を遠ざける

魔よけ

であるかも知れない。

次に良かったなと思うのは、逆に自分も人を外見で判断するものではないとい うことを知ったということである。もっと言えば、

髪の毛の色(つまり外見)は人の価値を決定しない

ということを知ったことである。何しろこの数ヶ月で自分の価値がそう上下し たとは思えないわけで、そうしてみると髪の毛の色で価値が決定しないのは明 白である。「そりゃお前だけだろ」と言われても、「髪の毛の色は人の価値を 決定する」という仮説は否定出来るわけであるから、これで十分である。 考えても見るといい。

天然茶髪

の毛唐人達が、我々と何かが違うだろうか? まぁ色々違う部分はあるにせよ、 人間としてどっちが良いとか悪いとかとゆーものではないはずである。ついで に言えば、肌の色だって同じことである。日焼けサロンで肌を焼いた人工黒人 であろうが、本当の黒人であろうが、白人であろうが、人間としてどうという 違いなんかありはしない。単に

外見の属性

としてそうなだけである。

そう思うと、茶髪は単なるファッションに過ぎない。そして、そう思えば、

服の色を変えるのと、どれくらい違いがあるのだ?

と思うのである。逆に言えば、髪の色等の外見をどうしたところで、何がどう なるとゆーわけでもない。だから、ツッパろうと思って外見を変えても無駄で ある。何かしたけりゃ中身を変えるしかない。

というわけで、ファッションとして髪の毛の色を変えることに、遠慮すること はない。服の色を変えるのと同じように考えるといいだろう。いい年こいたお ぢさん達も、「白髪染め」なんてマイナーなことを考えないで、茶髪でも赤髪 でもするといい。その方がプラス指向であることは確かだ。そして、今まで見 えなかったものを見るといい。


放送法第1条

1997年6月25日

放送局の仕 事は辞めたので、遠慮なく放送局やマスコミのことが書けるようになりました。


表題の放送法第1条には、

放送の不偏不党

がうたってある。つまり、放送局の一番重要なものが、不偏不党であるという ことである。つまり、放送局は誰かの意向に添って運用すること許されていな いということなのである。

しかし、放送が中立的であるなどと信じているような奴は

いない

であろう。フジが右傾であることや、朝日が左傾であることは、

大人なら誰でも知っている

ことである。

ところが、そうであっても不偏不党とゆータテマエはあるわけで、少なくとも フリだけは不偏不党なのである。子供にとっては、フジも朝日も公正中立なの である。

しかし、これははっきり言って、

マズイ

ことである。偏向した報道を中立だと言うのは、フェアではない。とは言え、 何も無理に不偏不党公正中立になる必要もないのではないかと思う。むしろ、 多少偏向してくれてる方が、視点がはっきりして良いのではないかと思う。重 要なのは、偏向しないことではなく、

偏向していることの明示

であると思うのである。どうせ現実では偏向しているのであるから、放送法第 1条なんてものは捨ててしまって、放送は偏向が基本で良いのではないかと思 う。そして、偏向していることを明示してしまえば良いのだ。

実は新聞にはこのような規定はないようである。だから、政党機関誌みたいな ものは、当然のことながら偏向し放題である。しかし、それが悪いと言う人は いないし、それで困ったという話もない。同じマスメディアでありながら、偏 向が明示されていれば全然困らないのである。それどころか、自民党支持者が 赤旗を読んで

別の視点から見えるのは良い

などと言っているのである。ま、出版は放送と違って、許認可制度はないので、 いくらでも作ることが出来るという違いはあるのであるが、だからと言って本 当は偏向している放送を、タテマエだけで不偏不党だなとどごまかされていて は、子供のためにはならないはずである。


表現の制約?

1997年6月27日

最近は自分の家が専用線サイトであることをいいことに、一日中IRCに常駐し てます。別に一日中IRCを見ているというわけでもありませんが、ログだけは ちゃんと落ちているとゆーことになってます。普段住んでるチャネルは、

です。

これらのチャネルのうち、「#はっく:*.jp」と「#ちゃっと」と「#ぴっち: *.jp」は、ほぼ同じような面子がいて、文化も似たようなものです。


このうち「#ちゃっと」は名前が名前なので、結構色々な人が来る。普段の 「住民」はプロバイダの技術者や大学教員やらが主で、

結構濃い

のであるが、新しく来る人の多くは、いわゆる

パソ通chat上がり

の人々である。この種の人々の多くはいわゆるパソコン通信的文化を持ってやっ て来る。いわゆるパソコン通信もInternetも、基本的な文化にそう大差がある わけではないが、ことchatに関しては、文化があまりに違い過ぎるのである。 具体例を挙げるなら、 これらのことはいわゆる文化であるから別に

いけないと言う気はない

のであるが、「#ちゃっと」の雰囲気とは馴染まない。このような文化の違い はしばらく見ていればわかりそうなのものであるが、喋りたがる人はjoinした らいきなり

こんにちわ > お〜る

である。積極的なのは悪いことはないが、それも度を過ぎるとずうずうしく感 じる。まぁそれでも言えばわかる人がほとんであるから、言えばわかる人につ いては、別に思うところはない。

良くないのは、このような注意をした時に、

表現方法を云々されたくない

的反論をする人である。まぁ確かに表現方法は自由である。しかし、それが場 の雰囲気を乱せば嫌がられるものであるわけであるし、その自由と主張してい る「表現方法」は高々

!!

顔文字

こんにちわ > お〜る

なのである。しかし、この程度のものであれば、

別になくても困らない

と思うのであるが、どうだろうか? 特にわりと技術系の出版社では、記事の 中で顔文字を使うことは、あまり好まれないということもあって、私はたとえ クダけた表現を使う時でも顔文字やそれに類する表現は使わないことにしてい る。もちろん場によっては、そのようなものが好まれる時もあるので、雰囲気 によっては使うし、顔文字もそれなりにストックは持っているが、顔文字だけ で会話するような表現を使うことは稀である。

(;_;)それでは微妙な感情が表現出来ない!!

などと言う人も多いのであるが、いけないと言っているのは濫用することであ る。個人的な会話であるなら、
>#えっち:ogochan< ちゅ!
<#えっち:?????> (*^.^*)ポッ!
くらいの会話はあるだろうし、それは別に普通のことだろう。またノリの中で、
<#じゃぺーん:_Syu> o(・・) ε=○ ろけっとぱーんち☆> めが
<#じゃぺーん:_Syu> o(・・)○o(・・)○o(・・)○ >めが
<#じゃぺーん:simm> 泣け! > めが
とやるのは、chatな世界であるから、良いことであると思う。しかし、周囲の 人間があまりそのような表現を使わない場でやたらそのような表現を使えば嫌 われるのは当然のことである。

また、高々顔文字や「!!」が使えないくらいで微妙な感情の表現が出来ない 程度の国語力の人が、微妙な感情が表現出来るとも理解出来るとも思えない。 文章で自分の感情表現が満足に出来ない奴が、表現方法は自由だなどと言うの は、ちゃんちゃらおかしい。


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