おごちゃん的視点のページ1996年12月分


考古学

1996年12月2日

芭蕉の古い手紙が発見されたそうである。

まぁこれで色々新しいことがわかるとゆーことで、その関係の人は色めき立っ ているようである。確かにそれは良いことで、別に文句を言おうとは思わない。 しかし、その調べ方にちょっと気になるところがあるのだ。

この手紙には何個所か紙を貼って修正した部分があると言う。当時は墨で書い ていたのだから、こうするしかなかったのだ。ところが、それを研究者は裏か ら光を当てて元に何が書いてあったか調べ、そこから芭蕉の推敲の様子を知ろ うとかと考えているらしい。しかし、これはよく考えれば、

大変失礼なこと

ではないかと思う。なぜなら、元を書いた人(芭蕉)は、その部分は自分が他人 に見せたくないから紙を貼って修正したのだ。つまり、本人はその下に書いて あるものは

見て欲しくない

のである。それをあれこれやって調べようと言うのは、冒涜ではないのか?

確かに色々研究したい気持ちは理解出来る。しかし、そういった本人が見て欲 しくないと思っていたものを、「死人に口なし」とばかりに覗くというのは、 とても趣味の良いことだとは思えない。「著作者人格権」みたいな話にする前 に、「エチケット」とゆーことを考えてみてはどうなのだ?

同じように、古いミイラやら遺体が発見されると、あれこれ調べ上げて「この 人の死因は」とか「○○を食っていて...」みたいなことを発表したりする。 これも本人が生きていれば、

そんな恥ずかしいこと言わないで!

と言うに違いないことである。死因や何を食っていたかは、現代人にとっては、 かなり秘密にしておきたいプライバシーであるのだし。

確かにミイラなんぞは研究者から見れば、単なる研究材料でしかないだろう。 しかし、それはかつて人格を持っていた人が生きていたという証拠でもある。 いくら古いものだからと言って、その人格を否定してしまうのはどうしたもの か。生きてる時に嫌なことは、死んでからだって嫌なのだ

今日本の古代史をやっている考古学者は、天皇陵を発掘したいのだそうだ。そ して、それは宮内庁が「天皇の墳墓であるから」という理由でさせないのだそ うだ。確かに宮内庁の態度は良くないとは思う。しかし、考古学者の今までの 暴挙を見てみれば、そう言うのも無理はなかろう。どうせあれこれ調べ上げた あげくに、「仁徳天皇は実は腹上死だった」みたいなことを発表するに違いな いからだ。

日本語で「ずっと秘密にしておく」ということの表現で「墓場まで持って行く」 というのがある。つまり、墓場に持って来たものは当人の第1級の秘密なので ある。それを「死人に口なし」とばかりにほじくり返すのは、あまりお行儀の 良いこととは言えないだろう。


DDIポケット

1996年12月2日

私の本業は電話屋でもある。それもPHSの基地局 工事がお仕事である。で、私は京セラ の下請けでDDI中国ポケットのの基 地局を作っているのである。

ところで最近はPHSにしろ携帯電話にしろ、法外に安い。利用者の立場から すると、安いのには文句はない。むしろ、機器なんてのは電話契約のオマケく らいであっても良いのではないかと思う。しかし、実はこのような競争はイン フラ整備の部分のしわよせになっているのである。つまり、価格競争するため の原資を作るために、下請けの工事費用をどんどん削るのである。とにかくそ の削り方ハンパではないのだ。

はっきり言えば、

こんな金額では工事出来ない!

ような子供の小使いのような金額でしか発注しないのである。しかも、安全上 かなり重要なパーツ(電柱の足場クギ)も「経費節減」という名目でケチってい るくらいである。あまり安いので文句を言ったら、「これでもやらせてくれと 言う会社があるのだから、法外に安いとは思っていない」とのたまいやがった。 実際には色々なしがらみから、

逃げるに逃げられない

からやってるんだから、感謝されることはあっても、あーゆー暴挙に出られる 理由はないはずである。


Linux Japan

1996年12月4日

Linux Journalの翻訳をベースにしたLinux Japanという雑誌が発行されること になった。これでLinux Journalの優良記事が日本語でも読めるようになった わけで、非常に喜ばしい。

編集に稚拙なところは多々あるし、翻訳も「ちょっとなぁ」みたいなのがない わけではないが、まぁそれは追々良くなって行くだろうと思っている。とにか く出たことを素直に喜びたい。

しかし、良くないのは付録のCD-ROMである。編集が多少稚拙なところは、まぁ 仕方がないだろう。これも追々良くなって行けば良いことだ。問題なのは、

Slackwareが正しく収録されていない

ことである。著作権表示のファイルや、インストール方法のファイルが欠落し ている上に、ソースも収録されていない。基本的にSlackwareを収録する時に は、

ftp.cdrom.comにあるSlackwareのファイル群をそのまま

収録することが求められているのである。だから、この収録のしかたは

実にマズイ

のである。何しろこれは

明白なるライセンス違反

である。まぁ「自らの悪事を隠すために著作権表示を消す」というのは行為と して理解出来るのだが、インストール方法等まで抜けているということも考え れば、意図的にやった「悪事」と言うよりは、単なる手違いか何かであろうと 思う(思いたい)。とは言え、あのCD-ROMがマズいことは確かであるので、

即刻回収交換をする必要がある

それが出来ないようなら、

出版そのものを止めてしまって欲しい。

それが本誌の原稿を書いた著者への礼儀と言うものである。仲間うちで「あん な本に書いたのか」みたいなことを言われるのは、ライターとして致命的だっ たりする。

今まで我々は色々な形でLaser5のもの をフォローしたりして来たのであるが、今回の付録CD-ROMに関してはフォロー のしようがない。私の立場から言えることは、

Linux JapanはCD-ROM目当てで買ってはいけない

ということだけである。

今までの「JEシリーズCD-ROM」の流れから、その編集者が作ったように思われ る人もいるかも知れないが、あの付録CD-ROMに関しては、

我々は一切関与していない

のである。同じ会社から出ているからと言って、同じものとして扱えないので 注意してもらいたい。

PS. 1996年12月5日

「意図的にやった悪事とは思えない」と書いていたのだが、このCD-ROMには 「 RunRun Linuxの草稿」が無断収録されていることが判明した。「ドキュメ ントが落ちる」ということは、単なる手違いである可能性を否定出来ないので あるが、無断収録はそういった言い訳は通用しない。しかも、RunRunの著者で あるはね氏は献本すらもらっ てないそうだ。はっきり言って、

開いた口が閉がらない

物事のレベルとしては「乞食本」より程度が悪い。この程度の認識しかない会 社と付き合っていたかと思うと、自分の不明が恥ずかしい。そこで、

関係者の公式の謝罪がない限り

今後しばらくは協力を凍結したい

と考えている。このことはすなわち、

当面私の編集によるLinux + JE5は出ない

ということだと思って戴きたい。とにかく、Linux関係者が納得するようなこ とをしない限り、この問題は解決しないと思ってもらいたい。

政治力

1996年12月14日

若い人、特に若い技術者が上司や先輩を批評して、「あの人は知名度と政治力 があるだけだ」的なことを言うことがよくある。確かにそう批判される対象を 見れば、「そうだよな」と思う人も少なくない。特に大企業になると、

上司へのゴマスリ

だけでのし上がったとしか思えない人も少なくない。

しかし、その発言をする前に一つ考えて欲しいことがあるのだ。それは

政治力や知名度は、

根拠なく身につかない

ということである。政治力や知名度は天から降って来るものではない。人徳も 実力もない人間が、政治力や知名度を身につけることは不可能なのだ。技術は 努力だけで身につくかも知れない。しかし、政治力や知名度は努力だけでは身 につかない。その上でのさらなる精進や、技術の勉強とはまた違った種類のも のを身につけてこそ、政治力や知名度が身につくのである。だから、政治力や 知名度があるからと批判するのは、

単なるやっかみ

に過ぎないのだ。悔しかったら、技術以外の勉強もする努力をすればいいのだ。

また、この「政治力や知名度しかない」という発言の裏には、「技術はない」 というニュアンスが含まれている。しかし、それはいささか違う。技術がなく て、政治力や知名度が身につく程、世の中は甘くない。しかし、それでもやっ ぱり技術がないように見えるのも事実である。それはおそらく、その人が「先 達」であったということで、実際の働きをしたのが過去であるからなのだろう と思う。

「先達」というのは、無用な努力を必要とする。何しろ道のないところに道を 作るのであるから、本来の働きの他にも色々とやらなければいけないことがあ るのだ(一例を挙げるなら、「解体新書」は現代で言えば、「ターヘル・アナ トミア」の翻訳に過ぎない。しかし、人体についてよくわかっていなかった当 時は、「たかが翻訳」のために改めて解剖をする必要があった)。一度道がつ いてしまえば、例えどんなに細い道でも、後はそれを拡げて行けば良い。とこ ろが

最初の道を作るのは容易ではない

また、後でその道を素晴しいものにするのは、そう難しいことではない。だか ら、後を歩けば綺麗な道が作れる。しかし、最初に道を作るのは、道が出来た だけでも大変なことなのだ。綺麗にしている余裕なぞない。とにかく作るのが 全てなのである。その成果だけ見れば、いくら大変であっても汚ない道しか作 れない人を評価するよりは、

2番煎じ

であっても、綺麗な道を作る方を評価したくなるのは、ある意味で当然なので ある(逆な評価をしたくなる人もある意味で当然である)。これは単に評価基準 の問題なのであるから、どっちがどうと言えるものではないとは思う。

ついでだから書いておくと、「竹下登」は非常に偉い人だと思う。好きか嫌い かと言われれば、私は、

大嫌い

である。しかし、とても偉い人だと思う。

自民党「竹下派」はかつて最大派閥であった。これを色々な批判をした人がい るのだが、今思えば、それは

単なるやっかみ

にしか思えない。「なぜ最大派閥になれたか」を聞けば、おそらく誰もが納得 するだろうと思う。では「なぜ最大派閥になれたか」と言えば、彼が

一年生議員を大切にした

からなのである。当選1回目の議員は何の力もなければ、先輩へ何かするとい うことも出来ない。ところが、竹下登はその一年生議員を色々世話をしたとい うのである。誰も面倒を見てくれない時に、このようにされれば、それは恩を 感じるのは当然である。そうして竹下派は大きくなったものなのだそうである。

もちろんこのようなことで政治が決定されるのはどうかと思う。しかし、この ような一見無意味なことの積み重ねの結果が、あの大勢力の元だと言われると、 やはり感心せざるをえない。「政治力」は根拠もなく身につくものではないの である。


島根県庁

1996年12月15日

近頃官僚を始めとする、役人の汚職のニュースが多い。まぁ今まで無意味に行 政を牛耳っていた連中が裁かれるのだから、こんなに気持ちの良いことはない。

悪事はどんどんあばいて

クビにでも何にでもすれば良いのだ

まぁ仮に100人官僚がクビになったところで、何がどう変わるとも思えないと ゆーのも、また事実なのだろうが。

そのあおりを食ってか、最近は島根県庁でも

お歳暮自粛

ということになったようである。まことに喜ばしい限りである。しかし、その タイミングがいけない。

普通、お仕事を出してもらった側は、この時期お歳暮を持って行くのは特に珍 しいことではない。それが良い悪いは別にして、また下心があるとかないとか は別にして、とにかくこの時期に取り引き先にお歳暮をやりとりするのは、日 本の社会のごく普通の習慣である。そして、その相手先が役人であっても、こ とさら珍しいことではない。いけないのはそこに

下心

があることであって、お歳暮自体は無為なものである。「今年は世話になった な」と思われるような担当のところには、お歳暮を送る。それで何がどうなる というものではないのだが、何かしておけば気持ちよく仕事が出来るのだから、 そんなに悪いことではない。無邪気に送っていれば、それで良いのだ。

というわけで、県関係の仕事を少なからずやっている私の会社でも、お歳暮を 持って行っている。

ところが、そのお歳暮を持って行ったり、送る手配が終わった頃に「お歳暮自 粛方針」が県から出たのである。こっちとしては、一番面倒な仕事が済んだ時 に、「その仕事はしなくていいよ」と言われたようなものである。これははっ きり行って、

タイミングが悪過ぎる

これはもう、

何を今さら!

なのである。そういったことをやるなら、もっと早くから言って欲しいもので ある。そのタイミングの悪さたるやあまりに絶妙であるから、

これは考えてやったな

としか思えない。本当に困った役人様である。

PS. 1996年12月25日

県庁の某課からやはり返って来た。返した方にしてみれば、「返したから」で いいのだろうが、送った方からしてみれば、既に支出してしまったものなのだ し、今さら店の方に返品と言うわけにも行かない。「社員に環元すれば良いで はないか」と言うかも知れないが、出来るものとそうでないものがある。どう 考えても、

自分達の都合

だけの行動である。

しかも、よく考えてみれば「返した」と言うことは、一度は受け取っているわ けなので、誰が送ったかは伝わっているはずだ。つまり、結局のところは自分 たちへの

忠誠度

は計られているのだ。

地方からの情報発信?

1996年12月17日

最近の田舎の自治体の課題は、「地方からの情報発信」なんだそうである。何 でも、これは「地方」から「中央」に向かって情報を発信して、地方の存在を アピールすることなのだそうである。

しかし、これはどう考えても

ナンセンス

である。なぜなら、一度情報を「発信」すれば、もはやそれは「地方」ではな く、

その情報に関しては中央

なのであるからだ。そういった意味では、そもそも「地方からの情報発信」な どという言葉自体が、ナンセンスなのである。この「地方からの情報発信」が、 地方でもこういったことが出来るという意味なら、

そんな情報はいらない

情報は情報そのものに価値があるのであって、同じ内容ならどこから発信され ようと同じであるし、「頑張ったから素晴しい情報」などということはなく、 「良い情報だから価値がある」だけである。だから、情報を出した側は、「地 方でも出せた」などと自己満足的に喜ぶのではなく、その情報は「中央的価値」 を持たねばならないのである。「○○でも」ではなく、「○○だからこそ」に 価値があるのだ。最初から「地方」をハンディにしてもらおうなどという発想 自体がさもしい。それは単なる

甘え

に過ぎない。

情報に地理的な意味での中央や地方は存在しない。出したものが中央に位置す るのである。そういった情報の特性を理解せずして「地方からの情報発信」な どと言うのは、

何重ものナンセンス

なのである。

もし、どうしてもそういった意味のことを言いたいのであるなら、

現場からの情報発信

とでも言えば良かろう。情報はその発生現場からのものが一番生々しい。現代 では無用な加工が加えられた情報よりは、生に近い情報に価値があるのだ。だ から、現場からの生々しい情報には価値がある。このような情報を出すことは、 「地方でも」出来ることではない。「地方だからこそ」出来ることなのだ。そ して、その「情報発信」をした瞬間に、その「地方」は「中央」になるのであ る。

小学校でインターネット?

1996年12月18日

最近、某小学校の教師が区の条例を無視してホームページを作ったとかで処分 されそうだとか、そのために助けて欲しいとか、その話が広まった途端に教育 委員会が軟化したとかとゆー話が、あちこちのメーリングリストで流れている。 この事件については色々と思うところもあるのだが、それについてはそれぞれ のMLに書いたので、ここでは書かない。個人を一方的に攻撃するのは私の主 義に反するし、このページは個人攻撃のために使うつもりはないからだ。そこ で、この話をもう少し一般化して「小学校でインターネット」とゆーことにつ いて書いてみようと思う。

インターネットは、社会である

そこには善意もあれば、悪意もある。また、同じ善意でも、あなたの善意と他 の人の善意は違うかも知れない。そういう多様な価値感や意識が、インターネッ トの向こうには存在している。だから、「学校教育にインターネット」と言う 前に、まず「社会」とは何かとゆーことを教えなくてはならない。インターネッ トの向こうには「生の社会」が存在している。だから、もしかしたら、小学生 はそんな「社会」に生で触れるのは無理かも知れない(そうでないかも知れな い)。だから、いきなりインターネットに出て行く前に十分そのことを考えて みて、「無理だ」と結論が出たら、さっさと諦めるべきである。確かに、その 結論はちょっと見には

もったいない

かも知れない。しかし、

子供にはまだ早い

という結論であっても、それはいいのではないかと思う。なぜなら、インター ネットの向こうには生の社会があるのだから、「インターネットを使う」とい うことは、「社会に出る」のと同じ意味を持っているのである。

「強姦禁止法(正式にはもっと長い名前)」の中に「13歳に満たないものについ ては、同意であっても強姦とみなす」という個所がある。これは別に日本の法 律がセックスをのものを禁止しているというわけではない。「セックスして良 いかどうかを子供が判断するのは無理だ」と言っているのである。つまり、

子供にはまだ早い

のである。これと同じことがインターネットにも言えるという可能性は小さく ないように思われるのだ。

なぜこーゆー主張を展開するかと言えば、小学校でインターネットを使うとい う話の延長には、

インターネットが子供中心の社会になる

ことの危険があるからである。「子供が見るかも知れないから、○○がやめま しょう」とゆーことになれば、大人が大人になる機会がなくなってしまう危険 性があるのだ。「大人」が何であるかについての私の主張は、 ここに書いてあるが、要す るにこれは、

善悪が自分で判断出来るのが大人

ということである。しかし、「子供中心の社会」になってしまえば、情報の受 け手が、「善悪を自分で判断すること」によって情報選択をすることによる情 報入手が否定され、

既に善悪が判断された情報のみが提供される

ということになる。これはすなわち、

検閲の肯定

なのである。そもそもが「善悪の判断」などというものに絶対的な指標はない。 だから、どうしてもそれをやるとすれば、それをやる人の恣意的な主張になっ てしまうわけである。

一例を挙げよう。例えば、

殺りくの場はメディアに流すべきではない

という主張は

一見正しい。

しかし、人は戦争による殺りくのシーンを見ることにより、平和の重要さを知 るのである(「想像」で理解出来る程、こーいったものは甘くはない)。「殺り くの場は酷いからメディアに流すべきではない」ということは一見正しそうな 主張なので、誰からも支持を受けそうである。しかし、だからと言ってそれを 通してしまえば、

戦争による悲惨さを伝えることは困難

になってしまうのである。ここに「善悪の判断」を誰か他人(具体的にはどこ かの機関)に任せてしまうことの危険があるのだ。 確かに、

インターネットでたくさんのお友達が出来ました

ということは一見素敵だし耳触りがいい。しかし、それは

おじさんとのセックスで感じるようになりました

とゆーことと同じようなことかも知れないのである。

どこが同じなんだ?

というかも知れないが、大人になれば「セックスで感じる」ということは悪い こととは言われない、むしろ「いいこと」である。この話で問題となるのは、 それが「小学生」だからなのである。

ところで、こーゆー話になると、すぐ

子供には子供向きのフィルタをつける

という話になるのだが、それは意味もなくなるし、危険でもある。なぜなら、 インターネットをやるとゆーことは、

社会体験

だからだ。フィルタをつけた「温室」を体験させることに意味はない。

このような話をすると、

子供がインターネットを体験出来ないのか?

ということを言い出す人もいるだろう。しかし、「子供」や「大きな子供(学 校の先生のこと)」のように、社会を知らない人にもネットワークを体験させ ることは可能である。それは

LANを使えばいい

のである。つまり、まず学校内で色々やるのである。今まででも、

学校新聞や校内放送

があったはずだ。それと同じノリでやれば良いのである。。確かにそれらは

新聞ごっこや放送ごっこ

だったりするわけであるが、それでも新聞や放送がどんなものであるかとか、 どうやって作られるかの勉強にはなったはずだ。だから、まずそこから始めれ ば良いのである。何も小学生がいきなり

新聞社や放送局を持つ必要はない

のである。それで色々勉強をしてから、「学校発表」みたいなノリで、外にも チョコっと出してみる... といったようにすれば良いのだ。そうすれば設備だっ て安く出来るはずであるし、「教育効果」という観点から言えば、より密度の 高いことも可能になる。確かに学校の外には友達は出来ないかも知れないが、 その欠点を補って余りある結果が出来るはずだ。また、必要なら近隣の学校と 接続してもるのも良い。下手にインターネットにつなぐよりは、ずっと楽しい ことが出来るだろう。つまり、

インターネットごっこ

をやれば良いのである。まずはその辺からスタートして実績を積み上げ、色々 研究すれば良いのだ。何でもかんでも

世界に向かって情報発信

なぞする必要はないのである。このような「インターネットごっこ」の重要性 については、私達の書いた、

Linuxを256倍使うための本(ASCII)

にも書いてある。また、その方法も書いてあるので参考にしてもらうと嬉しい。

子供がネットワークを使いこなすこと自体は悪くはない。私はそんな時代が早 く来れば良いと願っている。しかし、何も急ぐ必要なぞない。下手なことをやっ てインターネットの未来を潰してまで、子供にインターネットをさせることは ないのである。


ムチュウデスキーのCM

1996年12月24日

最近JRが「ムチュウデスキー」というパック商品のCMをやっている。どう も、JR利用とスキーの何かをセットにしているもののようである。私はスキー はしないのであるが、まぁ用のある人にとっては良いものなんだろう。まぁそ の辺は好きにやっててくれればいい。

しかし、感心しないのはCMである。

どうも、恋人とおぼしき2人がスキーに行って、スキーして... までは良いの であるが、その後がいけない。どうも同じ部屋に泊まって、何やら女の方が

ワクワクドキドキ

している様子である。そりゃまぁ展開からすれば、

これから一発

やるのだろう。まぁ好き同志がやるんだから、別に文句を言う筋合のものでは ない。単に、

いいなぁ

と思うだけである。

しかし、ここでハタと考えるのである。現実がどうであるかは別にして、少な くとも、タテマエの上では、

結婚前の男女

が、そーゆーことを、おおっぴらにやってはいけないことになっているはずで ある。いや、私は現実にそーゆーことをやってはいけないと言う気はさらさら ない。しかし、そーゆーことを、おおっぴらにCMで流すとゆーことは、

はしたないこと

ではないか?

あくまでも

タテマエはタテマエに過ぎない

のは事実である。しかし、あくまでもタテマエは現実として存在しているもの である。いわゆる「本音」の部分でそれを否定するのは構わない。しかし、そ れはあくまでも

違反行為

なのである。タテマエはいくらナンセンスであっても、タテマエとして存在し ている限りは、尊重されるべきものなのだ。だから、ああいったことをマスメ ディアに載せるくらいおおっぴらにやりたいのだったら、まず

新しいタテマエ

を提示してからにして欲しい。現実世界では「そのタテマエはナンセンス」 「みんなで破っているのだから」ということが通っているにしても、マスメディ アに載せる時には、そのことは許されるものではないのだ。それがマスメディ アの責務というものである。

街路樹

1996年12月31日

昔と違い、最近はちょっと大きな道には街路樹が植えてある。この街路樹はいっ たい何のためにあるのだろうか?

あの程度の樹で空気の浄化がされるとは思えない。確かに全く効果がないわけ ではないだろうが、車の廃ガスの方がはるかに多いはずである。また、環境と しては最悪なところにあるわけだから、樹本来の作用は期待薄である。だから、

空気浄化には役立っていない

暴走車が歩道に乗り上げるのを防ぐためだろうか? まぁ全く役に立たないと 言い切ることは出来ないが、それよりは

丈夫なガードレール

の方がずっと嬉しい。

樹を目愛るためであろうか? ところが私は目愛ることが出来るくらい綺麗な 街路樹をあまり見たことがない。「○○街道の××並木」の類は確かに目愛る ことが出来るくらいのものがあるのだが、いわゆる街路樹はそうではない。む しろ、廃ガスとほこりにまみれた、

うす汚れて見苦しいものばかり

である。

他にも色々理由の類は挙げられるのかも知れないが、どれも実状を照らし合わ せると、ロクなものではない。あまり役に立っているとは思えないのである。

ところが、このあまり役に立っていないと思われる街路樹は、困ったことに車 から見ると、

視界の邪魔

になるのだ。小さな子供は植え込みに隠れてしまって見えないし、側道から本 線に出ようとする時には大きめの樹が視界を邪魔して、本線の車が見え難い。 はっきり言えば、

安全運転の敵

であると言っても過言ではない。ところで、大きな道には電柱があったりして、 視界の障害となっている。そこで、最近は美観ということも考え、電柱は地中 化されてきている。しかし、まさか街路樹は地中化することはないだろうし、

街に緑を

という意味なのだろうか、どんどん増えてさえいる。しかし、この街路樹が 「樹」であることをとりあえず無視すれば、

道路に視界の障害物がどんどん増えている

わけである。交通安全とゆー観点からは、とても歓迎出来たものではない。し かも、樹には手入れが必要なわけで、時々車道(歩道さえも!)を狭くして手入 れをして、交通渋滞の元となっているのである。さらに言えば、街路樹を植え るためのスペースは歩道側に張り出しているから、その分歩道が細くなる。こ れは色々な意味で辛い。特に視覚障害者にとっては辛いことである。

しかし、まぁこの街路樹が何かの役に立っているのなら、それは我慢しよう。 ところがどう考えても、本当に役に立っているとは思えないのだ。役に立って いることを色々挙げられなくもないが、どうもそれは、

設置者の自己満足

としか思えないのである。それに、いくら廃ガスに強い植物を選んでいるとは 言え、やはり廃ガスやらほこりにまみれた様、夏には明らかに水が切れてしお れている様を見るにつけ、

樹がかわいそう

である。

車の不自由も、樹の惨状も、何かの役に立っているのなら意味もあるが、単に 設置者の自己満足のためだったら、それはあまりに悲しいことである。

道路設置者にお願いしたい。

出来れば街路樹はなくして欲しい

どうしても設置したければ、車道と歩道の間に植えるのではなく、

歩道のさらに外側

に植えて欲しい。それなら、視界の邪魔も少なくなるし、樹に直接廃ガ スがかかったりすることもない。多少はマシになる。


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