「著作権使用料」は生活保護の一種か?

著作権法改正巡る2つの対立・「思いやり」欠如が招く相互不信

より。

この記事の中の、

デジタルとネットの普及でクリエーターは所得機会の損失という深刻な被害を受けている。MIAUは「一億総クリエーター」という政府の標語を引いているが、プロとアマチュアのコンテンツは分けて考えるべきである。放送局やレコード会社などを含むプロのクリエーターは、作品から収入を得ているのであり、その収入が激減するのを放置したらどうなるだろうか。ネット上でのプロのコンテンツの流通が増えるどころか、プロの道を志す人が減り、日本の文化の水準が下がる危険性もあるのではないか。

というのが、どうも納得が出来ない。

「プロの仕事」はもちろん金がモチベーションの一つであるし、技術的には「出来るアマ」よりも下である「かけだしのプロ」であっても、いろんな点でプロとアマの境界ははっきりしている。このことについては、何度か書いて来ているので、繰り返して言うことはない。何にせよプロとアマは分けて考えられるべきであると思う。その上で、やはり納得がいかない。

私はプロのプログラマだ。著作物を金に変えて生活をしている。昔からある「このプログラムは1本いくら」という形態で商売しているわけではないが、「プログラムを作って収入を得ている」ことに変わりはない。だから、「作品から収入を得ている」ことは、いわゆるクリエイター達と同じだ。

とは言え、私の作るソフトウェアは無料で流通している。特定顧客にしか用がないであろう、公開すると面倒臭くなるだけのものは未公開であるが、それはあくまでも「未」である。NDAとか絡むものは公開出来ないものがあったりするのだが、そういったものを除けば、何らかの形で公開する用意はある。実際には「面倒臭い」という理由で放置されているものも少なくないし、あまり市場性も新規性もないものは公開のモチベーションが上がらないのだが、まーその辺はやっている人はわかるだろう。

これはオープンソースな「業界」に身を置いたものなら、誰でもわかることだ。作ったソフトウェアは無料で流通するが、収入は得ている。じゃあアマチュアかと言われればそうじゃない。プロとして教育を受け、プロとしてのプライドを持って、プロとしての収入を得ているのだ。

競争はないかと言えば、「金を取るソフト」と比較したら、もっと熾烈な戦いがある。何しろ「値段を下げてシェアを取る」という戦略がないから、「相手」に「アマチュアの出来る奴」がいたりすると厳しい。だから、技術の水準が下がることはありえない。と言うよりも「技術」の水準を維持出来ないことは、「死」を意味する。それも、「出来るアマチュア」に敗北してしまうという、プロとしては屈辱的な死だ。MiAUにはこういった世界の人も関わっている。「従来型」の著作権ビジネスとは異なる世界の人価値観の人がいるのだ。

そういった世界のセンスからすると、引用の部分の言葉は、

何を甘ちゃん言ってんだよ

としか思えない。その「甘ちゃん」を糊塗するために、

かつてハリウッドの高名な人が「コンテンツが王様で、流通は女王である」という名言を吐いたが、デジタル時代は「プロのコンテンツが王様」なのである。その王様を突き上げていれば改革が成就するなどと考えるべきではない。

と言っているのだが、もはや「王政」の時代は終わってしまったのだ。

確かにプロのクリエイターに金が行かないのは、良いことではない。二次創作がどれだけ流行ろうと、いや流行れば流行るだけ一次創作がどれだけ偉大なものであるかがわかって来る。そういったものを作り出すクリエイターが貧乏しているという状況は好ましいとは思わない。

しかし、いつまでも今までの商売を続けられると思ったら、それは「経営」として甘い。無料でソフトウェアを書くことで商売が出来るようになったのは、「経営」とか「社会」を変えた(変わった)から出来るようになったことだ。世の中の環境は変化して行くし、また変化させて行くことが出来る部分は少なからずあるのだから、そういったことをして行くのが「経営」というものだ。

民放テレビの「売上」は、15〜40%は広告代理店が取り、残りの7割くらいはテレビが取り、そのさらに残りが制作会社の取り分で… ということになる(割合については力関係で決定するので一定ではない)。また、本の印税は「売上」の8〜12%くらいだ。つまり、「売上」から見た「クリエイターの取り分」なんて、そんなわずかなものだ。そもそも、「それがあたりまえ」と思っている時点で、今の「クリエイターの保護」ということが根本的におかしいとは思わないのだろうか? (*1)

社会は変化するのだ。その変化に追従して、収入を得続けるのが「経営」というものだ。そういった努力をしないで「社会が悪い」みたいな言い方をするのは、

社会が悪いと言い訳する非行少年

と同じではないか。

「不法コピー」は今までの「経営怠慢」に対する「ツケ」が回って来ただけだ。それを悪者視するのは(以下同文)。

少なくとも日本という環境で言えば、良いと思ったものに納得出来るだけの金を払うというのは、社会的に合意されている。無理やり金を取ることまで考える必要はない。ちょっと仕組みを変えるだけで、クリエイターに落ちる金は増やせるし、視聴者の負担も「合理的」になるはずだ。

PS.

*1 何の偶然か、池田信夫が同じネタで書いてた。この辺の「搾取構造」については、氏の方がずっと詳しいことなので、この辺についてはそちらを見てもらう方がいいと思う。主張の目指すところは違うみたいなのだが、「背景観」は同じだ。

「著作権使用料」は生活保護の一種か?” への3件のコメント

  1. 私も一次製作物を作る人達に収益がないと言うのは問題と感じますし、その為に優秀な製作物は極力購入するようにしています。

    私はアニメが好きなので、良いと思ったアニメは一度見ていてもDVDを購入するといった具合ですね。

    しかし、現在のTV放映やデータ販売の形に満足している訳ではありません。

    製作者に直接報酬を渡せるならそっちの方を選ぶでしょうし、
    別の形での配信や販売が行われ、それが優秀であるのならばそちらを支持するでしょう。
    それが十分な魅力を備えているならそのシステムその物に課金する事も厭いません。

    クリエイターに十分な報酬が払われず、コンテンツの配給の時間や内容も配信局の押し付けである等、現在のTV放送には多くの欠点があり、より魅力ある配信システムが生まれる可能性は十分にあります。

    私達が望むものに望むだけの報酬が払えるような、魅力のあるシステムが生まれる事を大いに期待しています。

  2. 誤解のないように言っておくと、プロモータの取り分を否定するつもりはないです。「初音ミク」の問題は、プロモータが弱いということでもあるので。

    とは言え、今の著作権の議論というのは、プロモータはうまく陰に隠れてしまって、権利者と利用者の対決になってしまっている。でも、そこで一番ハネているはずのプロモータが隠れてしまっているところが、この問題の不毛さを感じるわけです。

  3. 現在のシステムが変えられないのならば、権利者は権利を主張するしかないですが、
    利用者が真に不満に思っているのはプロモータのプロモートだったりしますから状況は複雑ですね。

    それに、加速するユーザーの嗜好の多様性に対しては、現在の大型のプロモータによるプロモートでは対応できなくなっていくのではないかとも思います。

    もっと開放されたコンテンツの流通システムがあれば、権利者もそちらに乗り換えて行こうとするのかもしれません。

    『こんな作品を作りたい!』と言う掲示を上げて、それに一定以上の購入希望者が集まったら、それを背景に銀行から融資を受けて製品化するとか。

    有料のニコニコ動画のような物を作って配信数で報酬が入るとか。

    ネットは双方向性が高いですから、今の『一方的に配信する』と言うシステムは必ず時代遅れになると思いますので、それに対応した、その上で一次製作者に優しい新しいシステムが出来て欲しいですね。

コメントは受け付けていません。