私がウヨを嗤うわけ

まぁいつか書かなきゃいけないと思ってたんで。

私はよくウヨを嗤う。サヨは嗤わない。別にこれは私が左を指向しているからではない。私自身の思想傾向は、かつては左寄りだったのだが、歳を取る毎に少しづつ右方向に動いて来た。

元々、親父が左側の人だったので、それにならって左側だった。家には「赤旗」来てたから、まだつばなれする前から読んでいた。長じて実際に社会に関わるようになってから、労働組合のアホさ加減に呆れ、だんだん左なものから距離を置くようになった。とは言え、やはりまだ左は左だった。

その後、クリスチャンになった時に牧師がアメリカ人であった。私の派はいわゆるファンダメンタルな派である上に、元々アメリカの保守派の人が多い派で、その牧師もご多分に漏れず「この米帝野郎」としか言いようのない人だった。そのお陰で、「日本人」ということを強く意識するようになり、かなり民族主義的になった。クリスチャン新聞あたりに「日本のクリスチャンは日本の歴史も宗教土壌も知らない」という批判が書かれていたことがあったので、日本とか日本人とか知るようにした。

では、今はどうかと言えば、どっちでもない。この「どっちでもない」は「中道」という意味ではなく、「ない」だ。もう今さら右だ左だというイデオロギーの時代ではない。だから、起きる現象もイデオロギーという視点ではなくて、「実利」という視点だ。要するに「白い猫でも黒い猫でも、鼠を捕まえるのがいい猫」なわけ。そして、それは私がそう考えたのではなく、時代がそうなったのでそうしているだけのこと。

90年代の社会主義国の崩壊は、実は社会主義だけの崩壊ではない。あんなにはっきりと目に見えるような形ではないが、資本主義も崩壊している。他のイデオロギーも崩壊している。つまり、あの時代でもうイデオロギーの時代は終わったのだ。イデオロギーの時代が終わったのだから、イデオロギー視点で物を見たり考えたりするのはナンセンスなのだ。

それゆえ、今さら右だ左だということをベースに考える人達、右にしたり左にしたりする人達が滑稽でならない。ある事象があって何らかの結論が出された時、「その結論」を受け入れることと、「その結論を出した思想(とか人とか)」を受け入れることと、イコールであるだろうか?

もうちょっと具体的な例を挙げれば、「君が代」を歌う人と「日の丸」を掲げる人とイコールでなければならないだろうか?「自然保護」を言う人と「福祉」を言う人はイコールでなけばならないのだろうか?「労働環境改善」と「社会主義」はイコールでなければならないだろうか?イデオロギーの時代であれば、これらは「イコールでなければならなかった」のだが、今はそうでもないはずだ。

たとえば、かつては「自然保護」は左な人達が好むものであったが、今や「企業のキャッチフレーズ」だ。左な連中の「自然保護」はマスターベーションに毛の生えたものでしかなかったが、「企業のキャッチフレーズ」になってしまってからは、実効性のあるものになった。このことから見ても、もはやイデオロギーなんてものには価値はないことがわかる。だいたいイデオロギーで幸せになれないのは、「社民党職員の不当解雇反対闘争」なんつー、わけのわからないものに象徴されている。

まぁそんなわけで、右とか左とかは、もはや私にはどうでもいいことになってしまっているわけだ。いや、どうでもいいわけじゃなくて、「お笑い(嗤い)」の対象になっている。

では、なぜウヨばかりを嗤うかと言えば、サヨを嗤うのは他の人が既にいっぱいやっているし、付和雷同を好む奴等は恐くてウヨが嗤えないようだからだ。お陰で、他の人が食い残したネタがいっぱいあってネタには苦労しない。サヨを嗤う暇がない。

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