前にも書いたのだけど、弊社には「定時」という概念がある。
今まで、定時のある会社、事実上フルフレックスの上に裁量労働の立場、また一人でやっていて事実上定時を意識することのない環境にいたのだが、今の状態が一番良かったりする。
なぜ定時を設けるかと言えば、それは「生活のリズム」を保つためと、「世間との時間のズレをなくす」ためである。
人間は怠惰なものであるし、そもそも人間の生理的な1日というのは25時間なのだそうだ。そうするとどうなるかと言えば、
時間がだんだんズレて行く
のである。
そうすると、だんだん昼夜が逆転してしまって、社会生活に支障をきたす。特に世間で事実上固定となっている「昼飯」の時間がズレてしまう。また、「晩飯のお誘い」の類があまり楽なものではなくなってしまう。逆に、こっちの都合のいい時間が、相手にとって都合が悪くなってしまう。
そんな生活をかれこれ10年以上続けていて気がついたのは、「社会生活という制約を考えたら、個人の時間を自由にすることはナンセンスなのではないか」ということである。
世の中が完全にこちらの都合の通りに動いてくれるのであれば、仕事の開始終了、就寝起床の時間は
気分次第
で問題ないし、その方が楽かも知れない。ところが、世の中は自分中心には動いてくれない。それが出来るのは、「自分の制御可能な時間」だけであり、世の中の大多数の時間は、制御不可能な時間なのだ。
それに気がついた時に、自分に
定時
を作るようにした。つまり、どれだけ自由にしたくても、時間はそれなりの拘束をするということである。
他方、時間が自由だということを考えた時に、実は時間が完全に自由であることはそれ程必要ではないことがわかる。むしろ必要なのは、
あとちょっとの自由
である。たとえば、
- 日中何かしないといけない時に自由に行ける
- 朝、たまたま寝坊した時に遅刻してもつっこまれない
- 昼、眠くて寝ていてもつっこまれない
- 夜、頑張りたい時はそれなりに仕事していい
みたいなことである。これらを実現するためには「時間が完全に自由」ということは全く必要なく、必要なのは単に
柔軟な対応
だけだということだ。
そんなわけで、弊社ではこの「あとちょっとの自由」を提供する代わりに、定時を設けた。つまり、
- 関係者が承知していれば、日中どこかに行っても構わない
- 朝、多少遅刻しても構わない
- 昼、居眠りしていても起こさない
- 早く帰りたい事情があれば、周囲にネゴってあれば帰ってもいい
ということにしているわけだ。
似たことは「コアタイムありのフレックス」でも実現出来そうなのではあるが、コアタイムは案外に面倒で邪魔なものなので、むしろそんなものは無視出来るような「自由」がある方が嬉しいことは多いと思う。
そんなわけで、「定時はあるけど煩く管理しない」のが一番楽なのではないかと思うに至って、そのようにすることにしたのである。