「マッチョしか選択肢がなかった人」

小飼さんのblog

小市民の敵は、小市民

のコメントに興味深いものがあった。

マッチョしか選択肢がなかった人と、マッチョになるのに覚悟が必要な人の認識の違い。

まぁ私も小飼さんほどではないけど、「結果マッチョ」な部類に入るだろう。つか、ウィンプな人の心情って、頭の中でしか理解出来ないから、少なくともウィンプではないようだ。

いや、実際にそんなに強いわけじゃない。分裂勘違い君が書いている程、強い人でもないし、力があるわけじゃない。でもまぁ、それ程良いと言えない環境にいて、少なくともその辺の人達よりはいい暮しが出来ている。自分が作り育てた会社を解任同然で辞めても、ほぼ当時と同じ生活が出来る程度には収入はあるし、仕事も充実している。仕事に困ることもない。世の中の中高年が同じ目にあえば、それこそ路頭に迷うわけだから、それを思えばそれなりにいいところにいる。もちろんそれは自分一人の力であろうはずがないし、周囲が良かった結果なんだと思うけど、そういった「周囲」との関係を築くのも実力のうちだと言えなくもない。

じゃーそんな結果を築き上げるために、

「自分はわるくなかった理由」を10個考え出している間に、「その状況から抜け出す具体策」を10個考え出す生き物がマッチョなんだ。

なんてことを意識してやっていたかと言えば… ないとは言えないが、「10個」は思いつかない程度の奴だ。むしろどっちかと言えば考え出しているのは「ダチョウアルゴリズム」の方だったように思う。

とは言え、適当に「上」見ていろいろやって来て、他人から見ても上々だと思ってもらえる程度にはうまくやって来た。それはなぜかと言えば、

そうするしかなかった

のだ。表題の「選択肢がなかった人」という言葉はまるっきりあてはまってしまう。

最初の会社はブラックで… という話は前に書いているのだが、そこから抜け出すにはそこを辞めるしかなかった。テレビ局にいる時には随分と会社の都合で異動させられ、仕事の環境を整えて「さぁこれから」という時にその仕事が出来ない。いろいろやるから器用になっては行くが、文字通りの器用貧乏になってしまっていたから、そこから抜け出すには辞めるしかなかった… 要するに今まで転職したのは、たいてい「そうするしかなかった」からそうしただけだった。

転職に限らず、私にあった諸々の転機は全て

「イエス」か「はい」

しか選択肢がなかったのだ。仕方ないから、どっちかを答えるわけだ。

ことさらに自分が強かったわけでも、能力に自信があったわけでもない。実際、仕事がつまらないとネットでぼやいていた時に「○○に転職したら?」と勧めてくれる人は少なからずいたのだが、その「○○」はたいてい私がビビってしまうようなところばかりだった(「Googleに行けよ」と言われたようなものだと思ってくれるといい)。客観的にはそういったところが合っているように見えたのかも知れないが、本人は「めっそうもない」と思っていたし、そんなところに言ったらコテンパンにやられそうで恐かった。そういった「高飛び」みたいな転職を思うよりは、「自分の足で一歩づつ」とか言いながら、「仕方ない」事態が起きるまでは黙々と同じ環境にいたものだ。

なんてことを書いていれば、客観的にはどう見えているかは知らないが、主観的にはマッチョとはほど遠いものだと思っていたということがわかると思う。

でも、じゃあいわゆるウィンプな人達とは何が違って現在が違うかと考えたら、結局のところ「マッチョ的思考」しかすることが出来なかったからじゃないかと思う。

私はいろいろな形の「資産」というものを、元々持っていないし、作ることにもそれ程興味がなかったものだから、ほとんど「自転車」みたいなものだった。自転車はこぐのをやめるとコケてしまうように、私が前を向いて働くことをやめてしまったら、いきなり生活が出来なくなってしまう。ズタボロになっても寝込むなんてことは出来ないのだ。寝込む余裕なんてないんだから。そうかと言って、その生活を続ければズタボロはもっと酷くなる。そうした時に、考えることは

そこから抜け出すこと

だ。寝込んでまた元の場所に戻るような「余裕」はないんだから、抜け出すしか選択肢はない。今の状況が良いとか悪いとか、誰のせいだとかと議論してもしょうがない。そこで考えたことは、結局のところ

それはそれとして、じゃあどうすればいいか

しかない。分裂勘違い君の言葉で言えば、

マッチョは、とにかく目の前の具体的問題を解決することを優先する。誰が悪かったかなんて、あとから考えるんだ。矢が刺さって、血がどくどく流れているのに、誰が矢を放ったかを議論している場合じゃない。とにかく矢を抜いて止血するのが先だと考えるんだ。「ボクは悪くなかった。時代が悪かった。」そりゃそうかもしれないが、それよりも先に考えることがあるだろう?と考えるのがマッチョ。

ということ。それほどマッチョでない私は、いやそれほどマッチョでなかったが故なんだろうと思うけど、目の前の問題から目を背けながら立ち止まるなんてことは出来なかった。その状況が耐えられないんだから、逃げるしかない。だから、「どうやって逃げるか」ということを考えていたわけだ。

結局、マッチョであるかどうかなんて関係なくって、選ぶべき選択肢は「マッチョのもの」しかなかったのだ。矢を誰が放ったかなんて、考える体力なんて持ってないのだ。

「マッチョでない選択肢」がある人だったら、マッチョに生きる道を選ぶかどうかってのは、文字通り選択だ。「選択」と言うからには迷う余地がある。だけど、「マッチョでない選択肢」がまるっきりないとか、向こうには死しかないのが見えてしまっているとかだと、「マッチョでない選択肢」なんて選びようがない。自分がマッチョでなくたって、「マッチョ」という選択肢を選ぶしかないのだ。

でもそうやって来てわかったことは、何も「真性マッチョ」でなくても、「マッチョのすること」をして来れば、なんとなくそれでやって行けるということだ。確かに「もっと楽そうな選択肢」がある人だったら、安全そうな道を選ぶのだろうと思うのだけど、それしか選択肢がないからそうするしかなかった。その結果、なんとなくモノになっちゃったわけだ。

そうしてみると「マッチョ」かどうかなんてのは、その人自身がどうかということと関係なく、「マッチョな生き方を選択したかどうか」ではないかという気がする。そして、それしか選択肢がなかったら、私のようなウィンプ側の人間であっても、そこそこマッチョになってしまう。