南方司のblogより。
読む人にあらかじめ言っておくが、これは
個人的なdisり
だ。それでも敢えて公開するのは、個人的なdisりであっても、立場を考えて読めば意味を持つことが可能だから。
件のエントリを乱暴に要約すると、「日本の産業構造は天才を必要としてないから天才が不遇だ」と言いたいようだ。これの前半はまぁ当たり前の主張。
実際私も求人する時に「天才」は求めない。他と違うのは「別に天才でもいいよ」と思っているだけで、「いらない」とまでは言わないってことか。それでもまぁ派手に仕事をする奴よりは、地味にコツコツやってくれる方が都合がいい。
「天才」であることは確かにありがたいことなんだが、「天才」にあたることは私にとっては「宝くじ」に当たるに等しいと思っているので、そんなラッキーを求めてビジネスを組むというのがナンセンスだからだ。「宝くじ」に頼るよりは「パチンコ」の方がはるかに効率いいし、「地道に働く」のはもっといい。「運」に大きく左右されるようなものでビジネスは組めない。だから、「天才」は「いてもいいけど期待もしない」という扱いになる。私が期待する人材は、「天才」よりは愚鈍にコツコツ働く奴だ。「宝くじ」に当たれば一生働かなくても生活出来るのだろうが、それに人生賭ける奴は馬鹿だ。
前半に反対じゃないのに、なんでこのエントリが「個人的なdisり」かと言えば、もちろん理由は結論へのつながりにある。と共に、
著者である「南方司」は「天才」の一種
だったからだ。つまり「お前が言うな」なのだ。
実は私は彼を昔から知っている。彼が高校を満足に出ないで業界周辺をふらふらしていた頃から知っているのだ。いわゆる「技術者」としていたわけじゃないし、そんな面を見たわけじゃないが、いい加減なことをやっている割にはいろいろ物もわかっていて生意気な奴だった。生意気なだけなら、まぁそれくらいの年齢の奴にはいくらでもいるのだが対人スキルも高かったようで、結構あちこちにコネを作ったり、偉い人にかわいがられていたりした。
当時から彼は「評論家」としていっぱしの口を叩く「変なガキ」だった。たいていの「評論家」は「だったらお前は何者なんだよ」とつっこむと何も言えなくなってしまう人が多い中、そういったつっこみを必要としない程度に口が立つ。「口が立つ」ってのは単に口先だけでは出来ないから、それなりに情報収集もしていたんだと思う。そういったあたりも天才的だった。私がよく「技術は虚しい」「技術(者)は1円の金も生まない」と言うのだが、彼はそういったものを金(豊かさ)に換える能力を持っている、数少ない人間の一人だと思っていた。
そんなある日、私は彼にあることを頼まれた。知らない仲じゃないし、頭も良い奴だったので、「ある期待」を持ちつつ快く引き受けた。しばらくはそれを有効に使っていたようだ。
しかし、彼は大学を出て就職をした時、「ある期待」を一気に裏切ってくれた。まぁそれ自体は「考えあってのことだろう」と思う範囲のことなのだが、最近の彼のblogを見るにつけ、どうやら
ただのネガティブな評論家
に落ちぶれてしまったようだ。
個人的な面白くもない話ではあるが、これは件のエントリの主題につながる。それは、私が彼のことを天才と認めて天才として遇しても、
彼がそれに応えなかった
ということだ。当時(まぁ今もだが)の私に出来る「天才を天才として遇すること」には限りがある。とは言え、出来る限りせいいっぱい「天才を天才として遇した」にしても、それに応えてくれなかったら、そうやって頑張ったこっちはどうなるんだと。
「天才」に出会うのは、「宝くじ」に当たるようなものだ。だから常識的な心ある人は、その「天才」を大事にしたいと思うものだ。なんせせっかく当たった「宝くじ」なんだから。ところが、その「天才」が期待に応えてくれなかったらどうだろう? 期待が大きかった分、失望も大きいのではないか。そして、
もう「天才」に期待をかけるのはやめよう
と思うのではないか。だから不遇なのは当然だ。
未踏をやった奴等が大した仕事をしていないというのは、実は未踏関係者も残念なところらしい。頑張って発掘した「天才」が細々と悠々自適的な仕事をしているのは、未踏関係者にとっては
せっかく期待をかけて「天才」を発掘して育てたのに
それだけで終わってしまった
ということにならないだろうか? 未踏に限らず、個人的に「お! こいつ天才?」とか思った奴に、あれこれしてやったのに期待に応えてくれなかったという「じじぃ」は少なくないんじゃないか。
私は「天才」とは「天賦の才能」のことだと思う。つまり、その「才能」は本人の能力によるものではなくて、「天」から授かったものだと思うのだ。これは別にいわゆる「天才」に限ったものじゃなくて、あらゆる「才能」は「本人」のものじゃなくて「天」からものものだと思う。つまり、
才能は私有財産に非ず
なのだ。だからこそ、それは「社会」に貢献し環元しなければならない。ましてや他の奴等よりも多めに与えられている「天才」は、その才能を生かす努力をしなきゃいけないし、期待に応える義務があるのだ。
資本主義社会で「社会貢献」をしようとすることは、「野心を持つ」とほぼ同義だ。だから、未踏のようなものに応募して「我こそは天才なり」と言いたいのであれば、それにふさわしい「野心」がなければならない。「悠々自適」などと言う「権利」は「天才」にはないのだ。
PS.
この結果がこれか… と思ったら、「スーパークリエータ発掘・支援事業」に名前を変えるらしい。なんか「角」を取ったなって感じだ。
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