会社を辞めるのは「即断」だった

会社を辞めることにして、いろんな人から「決断は大変でしょう」ということを言われた。

ところが、実はわりと簡単に決められた。ほとんど「即断」である。今の会社は発起人の一人であるし、10年近く続けて来た会社であるにも関わらずだ。

もちろん「次」を考えていたということもあるのだが、それは「儲かるかどうか」を考えるモデル化がこれからという代物だったから、「今の仕事が片付いてからゆっくり考えよう」と思っていたものだった。もちろん「やること」の具体化についてはいろいろ考えていたのだが、肝心の「儲かるかどうか」「どう儲けるか」のところについては、あまり具体的ではなかったのである。

私には貯金はほとんどない。2ヶ月も収入がなかったら干上がる。まー、持って3ヶ月だ。今の会社にはそれなりに資本金を入れてて、これが返って来るなら1年くらいは持つが、辞めると決めた時には「返って来ないもの」という前提で決めている。そんな状態なら、普通は今の環境にしがみつくものであるし、私が辞めると決断する元になった人達も、「まさか辞めないだろう」と思っていただろうと思う。

じゃあなぜほとんど一瞬で「じゃあ辞めるわ」と言ったかと言えば、「人生どうせ収支は0」と思っていて、それを前提での「自分の価値」というものを考えていたからである。

先日新幹線の中で読んでた雑誌に「経営者を成長させるものは、倒産、大病、投獄である」という言葉が出ていた(電力の神様と言われた松永安左エ門の言葉らしい)。そのココロは、これらのものは強制的に持ち物を奪われてしまって、残るのは自分だけになってしまうから「自分だけの価値」を再認識するからだそうだ。この言葉は、私はそれまで知らなかったのだが、私の普段思っていたこととだいたい一致する。

私自身、結構ヤバい橋を渡るようなことをしたり、無理やり渡らせられたりして来た経験から、「そのうち懲役でも喰らうんじゃないか」と思っていた。また大資本がある会社でもないから、倒産のリスクは常にあった。そうなると、それまで築いて来た「地位」とか「立場」といったもの、収入の元といったものは、全て0になってしまう。そうなった時に残るものは何かということを考えて、「自分の真の価値」というものを考えていたのである。つまり、他者によって奪われない価値、永続的な価値とは何かと考えたのである。そして、その価値を高めることを考えていた。まぁまだ人間出来てないから、「天に宝を積む」ことはできないけど。

そう考えると、「地位」とか「立場」あるいは「今の収入」なんてものに永続的な価値はない。「現金」はもうちょっとマシだが、これも奪われてしまう。「取引先」や「コネ」もそうだし、「友人知人」も表面的な関係の人達はなくなるだろう。親戚家族の類もそうかも知れない。また時々私が嘆いている、「準備ばかりさせられて果実は他人」ということの経験も小さくない。これは「どれだけ今の仕事に思い入れをもってやっていても、成果が自分に帰す保償はない」ということであり、「仕事」や「思い入れ」も「奪われるとなくなるもの」だと言うことだ。

だから、そういったものを充実させることそれ自体に「コスト」をかけるのは、馬鹿げている。もちろん結果としてそれらが充実することが悪いわけではないが、それらが「人生の目標」となってしまうのは馬鹿げている。と考えて行動して来たのだ。

実は今までも、そういった「奪われるとなくなるもの」は、どんどん他人に渡して来た。「奪われるとなくなるもの」というのは「譲渡可能なもの」でもあるからだ。ところが、それらがいかに私にとって価値がないものであっても、もらった人にとっては価値があったりするので、「感謝」を得ることができるかも知れない。この「感謝」は「奪われてなくなるもの」ではないので私にとって価値がある。つまり、私にとって価値のないものが、私にとって価値のあるものに転換されるのだ。まぁ「感謝」なんてものは、奪われなくても急速に目減りして行くものではあるけど。

そんなわけで、自分自身の意思決定の時に、「地位」とか「立場」とか「今の収入」のようなものには、極力縛られないで済むようにして来た。だから、「ほぼ即断」だったわけだ。会社やそれにまつわる人間関係に愛着がないわけではないし、いろんな「しがらみ」がないわけではない。しかし、「愛着」があったところで、「奪われてなくなるもの」であることに変わりはない。「愛すれど依存せず」だ。

もちろん「会社なんてなくても俺の価値は十分ある」なんてだいそれたことが言える程の者でないことは承知しているけどね。