肩書で自らをアイデンティファイしようとする人達

私自身はそんなに肩書に興味がない。

もちろんないよりはあった方がいいものだし、「ある人」を喜ぶ傾向にある世の中では、適度に誇示しておくのも悪くない。ただ、個人的にはどうでもいいやと思う。あれはあくまでも「営業ツール」に過ぎない。タクシー(「営業ツール」の一つ)がどんなに便利でも所有しようと思わないのと同じように、肩書が便利に使えても特に所有しようとは思わない。前にも書いたように身につくものじゃないしね。

あまり興味のない理由として、「自分以外のもので自分をアイデンティファイする」ということが、どうも嫌だということがある。「自分のこと」は自分でまぁ何とかできるものが多いのだが、「自分以外のもの」となると、「自分のこと」以上に制御が難しい。「○○部長」という肩書でアイデンティファイしてしまったら、「○○」がなくなってしまうとアイデンティファイできなくなってしまう。ほら、時々あるでしょ「××の○○部長、今所属変わったんだけど、聞こうにも名前忘れちゃったよ」みたいなのが。あれがなんとなく嫌なのだ。まぁ私は名前が特異だから、わりと印象強く覚えてもらえているようだからいいけど。

まー、「社会的地位」として、「所属と肩書」を使うのは、そう悪いことだとは思わない。それが通用する世の中なんだから、特に妙な主張がない限り合わせておけばいい。あんまりそれに頼ると、足元をすくわれてしまうというリスクがあるので、その辺だけ気をつけておけばいい。なので、「所属と肩書」を意識することに対して、嫌悪感もなければ「やめとけ」と言うつもりもない。

じゃーそんなどーでもいいことを、なんでわざわざ文章を書くかと言えば、mixiのハンドルを見て思ったことがあるのだ。

「社会的地位」の表示や個人の特定のために、「所属と肩書」を使うのは、特に違和感はない。本人が自称するのはイタいと思うが、他人が使うのは普通だ。しかし、その「所属と肩書」が「名前と続柄」になっている人がわからない。「名前」は子供の名前だったり、ペットの名前だったり。「続柄」は「パパ」とか「ママ」とかだ。おまけにそれは「自称」だ。

確かにPTAとかの時に「○○ママ」みたいにして、子供の名前でアイデンティファイすることはある。PTAは本来「子供のための集まり」だから、「○○君」の方が主役だからその方がわかりやすい。しかし、そういった場を離れて「○○ママ」で通用させるというのに非常に違和感を覚える。子供が一人ならまぁそれもアリかも知れないが、複数いたらどうなるのか。そもそも、mixiみたいに「個人としての顔」が大事な世界に、「○○ママ」みたいなものを持って来ることに、何の抵抗もないというのが、何とも不思議だ。

まー「まいパパ」みたいに完全にハンドル化しちゃっている人ならそれもアリなんだが。昼間いっぱいある主婦とおぼしき足跡の主の「○○ママ」が、そこまでハンドル化しているとはちょっと考えにくい。それも、「自称」であるというのが、またおかしい。

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