私の知る人達は、私がなんでも作るのが好きだと思っているらしい。しかし、それははっきり言って、麗しい誤解だ。
もちろん物を作るのが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。でも、私が物を作る理由はたいていはそうじゃない。私が物を作る時の一番の動機は、
欲しいものが入手できない
という単純なものだ。「入手できない」というのは、
- そもそも世の中にない
- あるけどとっても高い
- 高くないけど入手性が悪い
とかいろいろだが、とにかく「欲しいものが入手できない」という点ではみな同じだ。入手できないけど、どうしても必要だったり欲しかったりすると、「作るしかない」と結論する。また、たまに「作った方が得」な場合でも作るが、これはモチベーションとしては一段低い。「作った方が面白い」ものは、作る余裕があれば「楽しみ」として作ることがあるが、たいていはコストと相談することになる。
他人が見た時、私が何でも作りたがるように見えるのは、
欲しいものが特殊
だからだ。また、「欲しい」という欲求に忠実だからでもある。
そのため、今あるものや今手に入るものの仕様が気に入らなければ、かなり簡単に「作る」という結論を出してしまう。自分が作るのが得意なものなら、なおさらだ。だから、
なければ作る
という結論が出やすい。「何でも作りたがる」ように見えるのはそのため。
何であれ、仕様に不満があれば作ってしまえばいい。そうすれば、自分の思い通りの仕様のものが手に入る。「なければ作る」というのは、私にとってはあたり前のことなのだ。だから、料理を作ることも、糊を作ることも、プログラムを作ることも、会社を作ることも… みんな同じだ。「気にいったものが今欲しい」「気にいらないもので我慢できない」「文句言うくらいなら作った方が早いし楽しい」と思うから「作る」わけである。
自分の作っているものが、金出せば済むもの(出せる範囲になる)、すぐ手に入るものになってしまうと、とたんに作るモチベーションがなくなる上に、自分の作っているものへの執着がなくなる。自分よりも上手に作る人があるものは、その人達に任せてしまって、買って来ればいい。
とは言え、自分の作るかけていたものがすぐに入手しやすくなってしまって、自分の働きが無になるのは悲しい。だから、
作るのに要する時間 < 入手までの時間
というものしか作らないようにしているつもりでもある。作るのに時間のかかるものであれば、なおのことだ。
それでも不幸にして、自分の作っているものが無価値になってしまった時は、あっさり捨てる。ちょっともったいないなとは思うが、あまり執着はしない。幸いなことに、作っていた「物」を捨ててしまっても、作っていた「経験」は捨てたことにはならない。作っていた経験は、使う上でもいろいろ役に立つわけだから、やっていたことは無駄にはならない。評論するにしても「経験者」として評論できる。実際に自分の手で作ってないとわからないことは、たくさんある。だから、単なる評論家でしかない人達よりは、深く理解できる。
だから、自分の欲しいもので、自分作れそうなものなら、作ってしまうという行為は無駄にはならない。だから、すぐ作るという結論を出し、すぐ捨てるという結論が出せるわけだ。
欲しいものがなければ作ればいい。それだけのことなのである。