私が左翼に距離を置くわけ

前にも書いたように、今はイデオロギーの類は無条件に距離を置くようにしている。ただ、左翼的なものはもっと前に距離を置くようにした。

思想的にはどっちかと言えば左だという話は以前の時にも書いたが、「左翼活動」なるもののうさん臭さから避けるようになったのだ。何が嫌いかと言えば、「何でも自己の陣営に引き込もうとするカルト的体質」が嫌いなのだ。彼等のやり方には「品」というものを感じない。

かつて、いくつかの「市民団体」に関わってきた。それはいわゆる「プロ市民」が作ったものではなく、ごく草の根的な町内会的ノリの延長の団体だった。それは福祉関係であったり、自然保護であったりだが、起源としては「自分の身近な環境を心地良くしよう」という趣旨の活動だった。

ところがまぁ御存知なように、こういった活動にはどうしても左翼活動家が入って来やすい。また、心情的に同調できる部分も少なくないから、受け入れもしやすい。左翼にもピュアな人達はいるわけだから、それを否定する理由もない。さらに、素朴な市民活動であっても、やはり政治とは無縁なわけにも行かない。行政に働きかけをする必要がある時には、やはり議員のツテがあることは必要だ。

ところが入れてしまうと、だんだん活動自体が左翼に乗っとられる。いつの間にか政治的活動の場にされてしまうのだ。特に選挙が近くなると、面倒臭い。「普段の義理を今返せ」みたいな態度に出られる。また、だんだん運動も変な方向に行ってしまう。

同じようなことは、保守系な人達にもあるのだが、彼等はもっと鷹揚だ。品位というものをわきまえていることと、そこまでセコセコ勢力拡大する必要がないということとで、あまり嫌な目には合わない。君が代やら日の丸やらを我慢していれば、あとは許容の範囲だ。

リベラルと保守派「逆だった。驚きだ」と調査の米教授

でこの話なのだが、これは別に驚くに値しない。「保守派」というのは「自分の所属する組織への帰属意識の高い人達」なのだから、そこでのモラルや秩序の類を尊重するのは当然である。そういった意識は「慈善活動」につながるため、「慈善活動」は保守派の活動なのだ。だから、伝統ある「慈善活動団体」は、たいてい保守派的な団体だ。

ここでは「リベラル」と書かれているが、これは左翼的と置き替えても同じだ。思想そのものではなくて、行動様式だから。

左翼的な人達はそもそも「慈善」という概念がない。むしろ「対等」とか「平等」が重要であり、潜在的上下関係のある「慈善」というものは「偽善」だと考えているフシがある。確かにその姿勢は間違ってはいないが、それは「強者か強者の要素を持っている者」にとっては真理だけど、本当の弱者にとっては真理ではない。また、「現代社会では何をやっても金がかかるものだ」という側面をまるっきり無視していると言えなくもない。そのことについては、「みんなが手弁当でやれば広く薄い負担だよ」と言うかも知れないが、それは実は「消費税」の肯定と同じだ。金のない者にとっては厳しい。しかし、なんで消費税は NGで手弁当はOKなんだろね。

まぁそんなことから、左翼というのは本当に困っている時には役に立たないで、油断してると困っていても食いものにされてしまう存在だということに気がついた。だから、「左翼的思想」は支持しても、「左翼的活動」は一切支持できないのだ。

リベラルであること自体は良いことだと思う。しかし、左翼とイコールになってしまうリベラルになるのは、優しさを欠くように思う。

PS.

あのさ。「右翼」と「保守」と「ネトウヨ」は別物だからごっちゃにするんじゃないよ。「togetterにまとめられてしまう香ばしい人達」なんてのは、out of 眼中だから。