「忌しいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」

表題は新改訳聖書第二版 マタイによる福音書 23章13節より。って、別に抹香臭い話をする気はない。

ザンビアを最貧国と報道してバンブーバイクを売ることが「貧しさ」を作っているのではありませんか?

前に

「偽善」はもっと評価されるべき

という話を書いたのだけど、追記に書いたようなことが出て来たので呆れた。

件の記事、前半は

原宿で発売開始された竹製自転車フレームが予想を裏切る本気度でびっくりした

の事実誤認であろうことへのつっこみ。それ自体は別にどうでもいい。そういったことがされるのがネットのいいところだ。

呆れたのは中盤付近の、

このバンブーバイク(竹製自転車)はどのような形になるでしょうか。「ザンビアの人たちのために」と社会貢献を全面に出している以上、ビジネスにはなって欲しくありません。「ザンビアの人たちのために」と言いながら、稼ぐことには抵抗はないのでしょうか。とはいっても、無償のボランティアで社会貢献も難しいでしょうから、せめて収益くらいは広く公表されるでしょう。それをせずにザンビアが貧しければ貧しいほどバンブーバイク(竹製自転車)は注目を浴びて、その結果ザンバイクス・ジャパンが儲かるという図式は訳が分からなくなりますから。

「偽善は持続可能だから評価されるべき」という立場から見ると、もう… 自分の罵詈雑言の語彙が少なくてうまく表現が出来ない。そこで浮かんだのが、表題の聖書の一文だ。

この「商材」で儲かることの何がいけないのだろう。もしこれでウハウハ儲かることになれば、それによって「ザンビアの人達」は潤うはずだ。そうでなかったら、作っている意味がない。そして、売ってる側がウハウハだったら、作る方もそれなりに金になっているはず。そりゃまぁ、商売ってのは、エンドユーザに近い程、動く金が大きく儲けの絶対額も増えるのだけど、こういったものは、「利潤」は切り取られるものではなく、積み上げられるものだから、誰も損していないはずだ。そりゃ、価格競争になってしまえば、利潤は切り取られるものになるから、不当搾取とかも起きないとは限らないけど。

「ザンビアの人達のためになる」ということは「商品価値」としてはいけないだろうか。「宣伝文句」として不適当だろうか。件の自転車は、

商品

なのだ。「商品価値」の一つとして、そういった「善行欲」を満たさせることが悪いだろうか? だったら、「フェアトレード」なものなんて、「フェアトレード」を謳うこと自体が良くないってことにならないか? 「フェアトレード」は持続可能性のためにある(不当搾取は持続可能ではない)のだけど、消費者に見える部分は「商品としての善行」であることは間違いない。「商品価値」として「善行欲を満たす」というものもあるのだ。

それに、問題視されているレビュー記事では、

予想を裏切る本気度でびっくりした

となっている。つまり、それだけ品質がいいことを言っている。間違いとして指摘されている「最貧国」ということについては、単なる「枕詞」でしかなく、「彼等のためになるから買いましょう」的なものではない。

正当に仕入れたものを、正当に売って利潤を得ること。それのどこが悪いのだろう。どうもここに、

ここは嫉妬深いインターネットですねwww

と全く同じ臭いを感じる。まだ、件のエントリの記者に「パリサイ人」を感じてしまう。こういった批判をすることは、

自分の行いは正しい

という主張をしているのと同じだからだ。

(3)~彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(4)また、彼らは思い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。(5)彼らのしていることはみな、人に見せるためです。

真の善行を行っている者は偽善を責めてもいいだろう。しかし、それがやりたかったら、

まずお前が本気でやれ

それに、だいたい「本気」でやっている人達ってのは、「偽善」を責めたりはしないものだ。「偽善」それ自体が邪魔になるわけじゃないし、役には立ってるからね。

と言えば、昔「24時間テレビ」でバスもらってるボランティア団体の偉い人(本当に偉くて立派で尊敬出来る人)に、「なんで24時間テレビのものなんてもらってるのか」と聞いたことがある。そしたら、

くれるんだからもらっときゃいいんだよ、
向こうもそれで満足してるんだし、
それでこっちは便利になるんだから

との答え。当時はまだ若かったので、「24時間テレビ」を色着きで見てたのだけど、自分の了見の狭さに恥じたものだった。

もしかしたら、GIGAZINEの記事を書いた人はピュアだったのかも知れない。でも、大変残念だけど、私の短い人生経験では↑のようなことしか思いつかないのだ。もし本当に「ザンビアの人達」の役に立ちたいのであれば、件のエントリは

むしろ有害

だと思った方がいい。動機の純粋さは、行動を正当化しない。