浪人することになった受験生は幸いである

まー、身内用のエントリなんだけど、せっかく書くので。

もうだいたい今年の入試結果は出揃った頃かな。

大学受験をして、力及ばずに落ちた受験生達。君達は幸いである。なぜなら、

チャンス

を得られたからだ。

多分、本人はこれから始まる浪人生活を思って呆然としているだろう。ましてや、この少子化の時代だ。我々の時代と違って、今は大学定員の方が受験者よりも多かったりする。そんな時代にあって、志望の大学に落ちるなぞ、

俺の馬鹿

とか思って、自己嫌悪し絶望しているかも知れない。その気持ちはわかるし、「まぁ頑張れ」と言うしかない。でも、それは「大人」から見れば、

たった1年の挫折

に過ぎないのだ。

働くようになったら、1年やそこら「無駄に過ごす時間」が出来てしまうことは少なくない。大企業なら何かヘマして1年やそこら閑職に回されるとかあったりするし、小さい会社だったら潰れてしまって1年やそこらニート生活をするとか、そういった挫折はいくらでもある。今まで「1年頑張れば1年分進級」という環境でいたからわからないだろうが、そういった挫折があるのが「社会」だ。

それが1年くらいならまだいい。「社会」に出るとよくあるのが、「自分のキャリアをリセットすることになる」というイベントだ。何年も働いて来てそれなりの評価を受けるまでになっても、「どうもこれ自分の道と違うよな」ということで、まるっきり違う仕事に転職する、またそのために勉強をするという類。あるいは、自分が何年もやって来た仕事や技術に需要がなくなってしまって、そういったキャリアが意味を持たなくなる。そういった類のことが起きると、何年とゆーオーダーで「挫折」したのと同じことだ。そういったことからすれば、本当に「たったの1年」だ。

実は「幸い」というのはここにある。

「君」はどうやって今年進むはずの「進路」を選んだのだろうか? 確かに「学校」の選択は成績順だっただろうが、同じ成績で選べる「進路」は無数にあるし、逆に同じ「進路」であっても行ける「学校」は無数にある。だから、「進路」については選択をしているはずだ。

ところが、日本の学校教育ではそういった「進路」を決定するための情報を全くと言って良い程与えられない。自分が将来どんな仕事に就くか、あるいはどんな勉強をするべきか、知る機会は全くと言って良い程ない。だから、「なんとなく得意な科目の延長」とか、「なんとなく好きそうなこと」といったことでしか判断出来ない。理系科目が好きだったから理系なコースとか、せいぜい「なんとなく格好いいから」とかだろう。あるいは「もやしもん」に心魅かれて農学部?

趣味とかある人ならまだしも、そういったものに近いものがあまりない人だったら、本当はどうしようかと思っているはずだ。

そう考えてみると、今年「君」が選んだ「進路」は果して自分にとって妥当であったのだろうか?

自分の人生を自分で決定する第一歩

と言うにふさわしいものだったのだろうか? 「浪人」することになった今、あらためてそれを考えてみるといい。そういった「考え直すことが出来る時間」が与えられたのだ。幸いだろ?

試験に落ちた理由はいろいろあるだろうが、多分誰もが「あと一歩」が足りなかっただけだ。何しろだいていの高校では、成績できっちり進路判定をして、それなりに可能性の高そうなところしか受験させてくれない。つまり、受験出来た時点で「合格確実」と思われていたわけだ。それでも落ちる時は落ちるわけで、それは「あと一歩」とか「運」とかそういったもののせいだ。だから、今さら「寸暇を惜しんで勉強」する必要はない。学力に大差があったわけじゃないからだ。

もちろん、1年サボってどうにかなるということもありえないから、当然受験勉強は続けるべきだけど、今から「春季講習」みたいなものを受ける必要はない。受験勉強はもっとゆっくりでいい。逆に今から「春季講習」とか、寸暇を惜しんで勉強とかしたところで、全然上のレベルの学校に通るようになるくらいの学力がつくようになるものじゃないらしい。

でも、「あと一歩」の学力が足りなかったということを考える時に、

モチベーション

の問題は小さくない。つまり、自分が行こうとしていた「進路」について、自分で納得、あるいは「やる気」が起きていたかどうかは大事だ。「親や先生が勧めるから」なんて理由で選んだ「進路」にモチベーションがないなんて、むしろ当然と言ってもいい。逆に「これをやりたい!」と思っていれば、苦しい勉強だってやる気になるだろうし、ならなきゃそっちがむしろおかしい。

そういったことも考えれば、今の「君」がするべきことは、予備校の「春季講習」に出ることじゃなくて、

自分のやりたいことを探す

ことだ。そうすれば、勉強のモチベーションもわくだろうし、その方が学力の「伸び」がいいはずだ。

だから、「浪人」することになったというのは、そういったことを見つめ直す機会が与えられたという意味でもある。何も考えないで、ストレートに大学に入って「なんか違う」とか思ってしまうようになるよりは、ずっとマシな未来がある。「志望の大学に入ったけどつまらなくて行かなくなって辞めました」なエントリは、そこらじゅうのブログにある。それは下手すると1年どころじゃない損失になりかねない。

そういった「もっと大きな損失」を避けるための、1年の損失だ。ここ数ヶ月くらいは、そういったことを考えて行動していい。何にせよ、

間違った方向に全力で進む

ような愚はしない方がいい。これから先の人生を価値あるものにするには、まずは「方向」を決めろ。勉強はそれからだ。

同じことは「就職浪人」にも言える。今さらジタバタしてどうにかなるもんじゃない。それよりは「方向」だ。

PS.

この「チャンス」が生かせれば、「君」の同級生である「ゆとり」よりも一歩前に行ける。今は一歩遅れているのは確かだ。これをそのままずっと遅れにするか、他の奴等よりも前に行くための充電期間にするかは、「君」の捉え方次第だ。「ゆとり世代の中のマッチョ」になるか、「ゆとり世代の出遅れ」になるか。どっちがいい?

PS2.

「目標は大学に入ることです」なんてのは、間違ってもダメだぞ。大学(就職もだが)は人生のゴールなんかじゃない。

おうちの方へw

浪人になったからと言って甘やかすことはない。どうせ浪人させるんだったら、2浪させるくらいで、そのうち1年はぶらぶらさせておくのも悪くない。ただし、

生活費やらずに一人暮し

だ。自活させて、「底辺アルバイト」でもさせれば、よりマッチョになるだろう。「勉強する意義」「社会の厳しさ」「親のありがたみ」が身体でわかるというものだ。ソースは倅w

浪人することになった受験生は幸いである” への1件のコメント

  1. 一人暮らしして「親のありがたみが」っていう台詞があるが、二通りの解釈ができる。
    1つは、最低限生きていけるスキルを身につけさせてくれていてありがとうという解釈
    もう一つは、ああ、親ってこんないろんなことやってくれてたんだなという解釈。

    当然私は前者であるべきと思っているわけで、上記台詞をいった人に対しては、ああ、親が何も授けてくれなかったのねと冷ややかに見ています^^。あと実家に帰ってお客さん扱いされてどうこう言う人もねw。すごい保守的ですけど。

    あと、一人暮らしってホントは親や他人と住むより何でも自由になるので慣れちゃうと全然楽。なのであんまり長いことやるべきではないと思います。こどもを成長させるには一刻館のようなカオスな場がよいと思いますね。

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