「勝ち負け」にこだわるわけ

あげ足を取られたら勝ち」のエントリのブクマに、otsune氏が「勝ち負けって何を競っているんだろう」とコメントしていた。

確かに私は勝ち負けにこだわるので、事情を知らない人は「何を競っているのだろう」と思うだろうし、「そんなに大事なことか?」と思う人もいるだろう。そういったことの嫌いな人にとっては軽蔑の対象かも知れない。また、正直なところ「勝負ごと」ってのは、私自身それ程好きではない。

でも、私には「勝つ」必要がある。

公理に基く理論から直接演繹される世界には「絶対的正しさ」が存在する。何らかの理屈らしきものが存在した時に、それが正しいかどうかは帰納すればわかるし、それが比較的容易だ。そんなようにいわゆる「理系」のものは「絶対的正しさ」が近くに存在するから、つい「正しさは絶対的なもの」思ってしまう。ところが、世の中の大多数のことはそうではない。

私に比較的身近な「文系」学問である、社会学、経済学、経営学といったものは、ツールとして数学や数字が出て来るからつい誤解してしまうけれど、出発点がぶっちゃけ「俺理論」だったり、何らかの「信仰」に近いものだったり、あるいは帰納するにも遠いものだったりする。つまり「正しさ」に対する絶対的なものがなくて、あくまでも「正しさは相対的」であったり、「勝ったものが正義」だったりする。

世の中のたいていの営みは、どっちかと言えば後者に属するものが多い。ここでのエントリだって同じこと。たまに純粋に技術的なことも書いていて、それには「絶対的な正しさ」を持つように書いているつもりだけど、それ以外のことは完全に後者だ。

「技術的なこと」と言っても、たとえば「カード形式のハードウェアRAIDはだめ」みたいなのは、私がそう思っているだけのことであって、他の主張は当然存在するはずだ。つまり、こと私が主張したり関わったりすることのほとんどにおいては、

正しさは相対的

であると言える。

じゃあそんな時に何が正しいかと言えば、結局のところ

勝ったものが正しい

ということになる。

当然のことながら、私が主張することは「自分の正しさを信じている」ことだ。つまり、主観的には正しいと思っている。でも、それはあくまでも主観に過ぎない。「あげ足を取られたら勝ち」という局面はまさしくそうだ。自分が正しいと思うことを主張している時だ。

ところが、その「正しさ」は客観的には検証されていないことが多い。ところが、その正しさの検証のために、一々勝負を挑むような暇はない。相手だってそうだろうし、ましてや傍観してる人にとっては「なんでもいいからどっちが正しいんだ?」思うはずだ。

「正しさの大規模検証」をしてる暇なんてないし、そもそも「絶対的な正しさ」なんてのは、たいていのところでは必要はない。だから、私は「自分のやっていることの正しさの検証」のために、小さな「勝ち負け」を使うわけだ。

だから、小さくて直接利害がなさそうな、どうでも良さそうなものにも「勝ち負け」を気にする。それはつまるところ

正しいかどうかにこだわっている

からなのである。