後生の一大事とは
A「それに、この問題に関連して、大谷派の同朋大学学長の池田勇諦氏が、テレビ番組で『後生の一大事』ということを取り上げていましたが、後生の一大事とは、どんな事だと思っておられますか」
S「池田勇諦さんは、どう言っていたのですか」
A「後生の一大事とは、今生の一大事、と言っていました」
後生は今生のこと?
S「そうです。後生の一大事とは今生の一大事ということです。今、生きている時、一番大事なことは何か、ということです。それは、死んだ後のことを考えるよりも、今生きている時のことを考えなければならないのだ、ということです。そこには地獄ということは、ありませんね。後生というと、死後のこと、と思ってしまいますが、やはり今生の一大事のことなのです」
A「今生の一大事とは何ですか。何が最も大切なのですか」
S「さあ、何でしょうね」
何とも頼りないものである。
A「後生とは、前生、現生に並ぶ後生ですから、前生が生まれる前、現生が、生まれてから死ぬまで、後生は、死んだ後の生となります。過去世、現在世、未来世、とも言い、昨日、今日、明日、を並べたようなものです」
S「では、後生の一大事は、死んでからの一大事と思われるんですか」
A「そうです。後生を今生というのは言葉を入れかえ、明日を今日というのと同じです。そんな事をすれば、大変な間違いになります。白は白、黒は黒、黄色は黄色と読まねばならない」
今生に固執する
S「後生の一大事とは、仏の教えに遇って、その後の生をどうするか、ということではないですか」
死後を認めたがらない真宗大谷派のS氏は、あくまで、後生は今生の事といいはる。
A「蓮如上人の『御文』の中の白骨の章にも
『人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、誰の人も後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて念仏申すべきものなり』
とあります。老少不定、とは老若共に無常の世の中に生きているのだから、いつ死が来るかわからない、そこで、後生の一大事を心にかけて、といわれているので、死後の事でなければ意味が成り立たないではないですか」
S「そのような受けとめ方をしたら、空しくないですか。アキラメじゃないですか」
A「なぜそれがアキラメですか。後生に一大事があるから、命ある間に信心を獲て、浄土に往生できる身に救われなさいよ、と親鸞聖人は教えられたのです。なぜ、阿弥陀仏が、本願を建てられ、浄土を完成なされたのか。地獄に苦しむ我々があるから、救われるために、ではないですか。親鸞聖人は教行信証に『身壊れ、命終りて必定して無間地獄に堕し』と書いておられるのだから、死後に地獄があるのは明らかです。
それを後生の一大事といい、それを、『一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、おん助け候へ』と弥陀をたのむのではないですか。阿弥陀仏に救われるのは病気の苦でも借金の苦でもない、一大事の後生の苦しみです。死後、必ず堕つる苦しみです」
なぜ“一大事”と言われるのか
S「説明はきわめて自然だと思いますが、どうして後生=死後とされるのですか」
A「一大事については、蓮如上人が、ハッキリ『御文』の中で説いておられます。
『この一流のうちにおいて確確とその信心のすがたをも獲たる人これなし。かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。一大事というは是れなり』(一帖五通)
浄土真宗の中に、間違いなく信心を獲ている、という人がいない。そんな人は、どうして報土(浄土)に往生できようか、できないぞ。そのまま死ねば、大変なことになる。一大事というはこれなり、と言われているのです。
では、どんな大変な事が起きるのか。蓮如上人はそれもズバリ教えておられます。
『この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり』(二帖目二通)
これは、教行信証に『身壊れ、命終て必定して無間地獄に堕し』といわれた事と同じく、死後のことです。このまま死ねば地獄に直行する我々だから、親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を教えられ、その救いを説かれたのです。その本願に救われるのは、一回ないし十回の念仏ではなく、信心を獲得するか否かです。その上の称名念仏は、御恩報謝の念仏だと教えられています。絶対の幸福に救われたら、お礼を言わずにおれないのですから。
何を救われるのか
たとえば『ガンだから、助けてくれ』というような場合、助けてくれ、という前提には、苦しいものがある、その苦を救ってくれ、ということです。
阿弥陀仏に、救っていただくところの苦とは、この後生の一大事の苦しみをいうのです。念仏には救われた後の他力の念仏と、救われる前の自力の念仏があります。
信心を獲たか否かで自力か他力か、念仏がわかれるのです。
それによって浄土へ往生できるか、否かが決定するのです。
聖人求道の目的
親鸞聖人はお若い時に、京都の六角堂へ百夜の祈願をなされました。それも『生死出ずべき道』を求められての事でした。生死出ずべき道とは我々が、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界を、生死流転しており、その、生死輪廻の迷いから出て離れる道が、生死出ずべき道です。迷いの六道を離れ、仏界に生まれる道を摸索されたのです。だから、後生の一大事を、今生の一大事と言いかえて、ボカしてしまっては、仏教の根本からボケてしまう。だから、往生一定の喜びもないのです。親鸞会のご法話ではいつも話されていることです。」
S「………」
旧態依然の真宗大谷派
後生の一大事が分からねば仏教は始まらない、といわれる。
仏教の出発点である後生の一大事を「今生の一大事」とスリかえ、信心正因を説かず「ただ念仏」ばかりを強調する旧態依然の真宗大谷派だった。親鸞会会員として、このような浄土真宗の現状を歎き、本当の親鸞聖人の教えをお伝えしたいと思うばかりである。
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