好評価される危険

何度も何度も書いてるし、←にも書いてあるように、ここに置いてあるのは単なる雑文、「覗き見できるチラ裏」でしかない。

それは「プライスレス」とか「無保証」とかという意味でもあるが、それと共に、私が「書く」ということへの自由を失なわないためだ。

これも何度も書いているように、「チラ裏」と言えども、他人が読むことは意識している。他人が読むに耐えないような文章にならないようにと、常に心掛けておかないと文章は下手になる。だから、ここで文章を書くというのは「自由」と共に「訓練」でもある。

現代で自由に文章が書けるということは、「自由」そのものであることとほぼ等価だ。だから、ここで文章を書くことは、「自由になるための訓練」であるとも言える。だからまぁここにある文章はみな「習作」であるし、それゆえ「無保証」だ。とは言え、価値を見い出す人もいるだろうから、「プライスレス」なわけだが。

ところが人間とは欲なもので、アクセス解析を見たり、はてブやらを見て、つい「どんなエントリがウケているか」ということを知って、それを意識してしまう。アクセスが多かったり、ウケてる様子があるエントリがわかると、「そういった感じ」のエントリを書こうとしたりする。

これが、一種のマーケッティングであるとか、あるいは私がアフェリエイトしていたりというような、「アクセス」そのものに価値を見い出しているのであれば、そういった「ウケる方向性」ということを意識して、「そういった感じ」のエントリを書くように精進する… ということは正しい。「あるふぁぶろがー」なるものになる修行として書いているのであれば、そういったことに敏感でなければならないだろう。しかし、それは自分に自分で枷をつけているようなもので、私がここで文章を書く意義である「自由に書く」ということと離れてしまう。

ウケてりゃ勝ち

というのも確かにあるし、ウケるということはきっと何らかの形で他人のためになっていることだから喜ぶべきことだし、それは「訓練」の一つの成果と言えなくもない。しかし、「自由」ということを忘れてしまうと、オリジナリティを失いがちとなり、他人の目を過剰に意識してしまい、その結果として

「私」が書く意味

が失われてしまう。私が私として自由に書くからこそ、私が私として書いている意味がある。「いいお話」とか「役に立つネタ」とか「面白い話」を求めるのであれば、私よりも上手な人はいっぱいいるわけだし。

なんて難しいことを言わなくても、「方向が決まっている範囲で書く」ということなら、

雑文書く暇に売文書け

ということになってしまう。実際、「書け」と言われてる原稿はいっぱいあるわけで^^;

まぁそんなことを常に自戒しつつも、つい「ウケたエントリみたいなもの」を書いてしまう。好評価があればあるだけ、つい甘い罠にはまってしまう。

悟り

とは難しいものだ。

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