源流探し(2)

源流探し」のエントリを書いて思い出したので、ついでだから書いておく。

日本のLinuxの古典的プロジェクトのいくつかは、私の「たきつけ」で始まったものがある。一々記録を探すのは面倒だけど、たとえばJM(日本語man)は「日本語のmanが欲しいなぁ」という潜在的な話が何度も出て、「もうぐだぐだ言わずにやっちゃおうよ。とりあえずこれ訳したから」とMajordomoのヘルプか何かを訳したものをMLに投稿したのが始まりだ。それからボチボチみんな投稿し始めて、今の原形が出来、そのうちいろんなプロジェクトと連携して… ということで、現在の日本語のmanがある。

JMはわりとはっきり「たきつけ」をして始まったものだけど、「どうせなんだからプロジェクト起こしてやっちゃいな」と言ったものはいくつもある。じゃあ、それらはみんな私の「手柄」かと言えば、

間違ってもそんなことはない

はずだ。だって、JMの今statusを見ても件の文書は「△」になっているし、このプロジェクトをまとめているのは他の人達だし、他のプロジェクトなんて本当に「たきつけ」をしただけで何の貢献もしてなかったりする。だから、

何もしてないも同然

なのだ。何もしてない者に「手柄」なんぞあろうはずがない。だいたい、「たきつけ」なんてのは、声がそれなりの大きさであれば誰だって出来るわけだ。こういったので一番の「手柄」のある人は、黙々と作業した人であり、その上にいる「まとめ役」なんだから。

プロジェクトが成功してしまうと(あるいは成功の方向が見えて来ると)、結構「俺が俺が」と言い出す人が増えて来る。中にはまるっきり根拠がないものもあったりするんだけど、根拠があるものだと信じてしまう。まー、信じるのは勝手だし、根拠があるものは事実として記録されてもいいんだけど、こういった「大河のように続くプロジェクト」なんてのは、その「大河」のような様子や、そこに持って行ったという努力に価値がある。誰がきっかけだったかなんてのは価値がないとは言わないけれど、そこに価値を見い出してもしょうがないと思う。

# 「黄河の本当の源流は、立ち小便だった」なんて悲しいし

0を1にする人、1を10にする人、10を100にする人って、みんなキャラクタが違うし、功績の価値も種類も違う。また、それを見る人だって、どこに価値を見い出すかは人それぞれなんだろうと思うけど、「たきつけ」とか「きっかけ」とかってのは、

0を1にした人ですらない

から、功績ですらないと思う。

じゃーなんでわざわざそんな「自己否定」みたいなことを書くかと言えば、自分が本当に頑張ったなーな時とか物を自分の「手柄」にしたいから。そんなものが「たきつけた人の手柄」になったら困るでしょ。だから、「本当の自分の手柄(だと言いたいこと)」で賞讃されるためには、そういった「手柄を盗もうとする論理による自分の手柄(みたいなもの)」ってのは、否定する方がいい。同じことを他人の手柄(だと本人が思っていること)に対してやると嫌な奴でしかないけど、自分の手柄(と言えば言えなくもないもの)について否定することは、遠慮する必要がない。

まぁ「自分のやった結果だけが自分の手柄」みたいな態度ってのは、あまり社長向きの考え方ではないかも知れないけどね。

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