いまだEmacsをありがたがるのか…

あるWebプログラマーの作業環境——豪傑の三種の神器【前編】 (1/2)

Emacsは便利だ。おまけに何でもできる。もう20年くらい使っていて指がEmacsになっているから、少なくともエディタとしては離れられないし、キーバインドもできればEmacsでありたいと願う。

Emacsの便利さは、拡張性にある。何でもかんでもやろうと思えばEmacsでできる。昔はlogin shellにemacsが書いてあるだけで十分だとさえ思っていた。IRCもできるし、mailもnewsも読み書きできる。プログラミングに必要なことで、Emacsで操作できないことはまずないし、「UNIX生活」という面でもそうだ。

だけど、私はそろそろEmacsは「テキストエディタ」としてだけ使えばいいんじゃないかと思い始めている。なぜなら、あまりに便利にその内部で閉じてしまっているので、他のもっと便利なものを使わなくなってしまうからだ。あるいは「他のもっと便利になるだろうけど、これから便利にして行くべきもの」に対するhackのモチベーションを下げてしまうからと言ってもいい。いずれも、「Emacs以外のツールへ目を向けることへのモチベーションを下げる」という点で同じだ。

Emacsとて限界がある。普通のEmacsでは「図」は苦手だ(原理的に図を描くプログラムが作れないはずはないと思うが)。だから、 Emacs使いは図を描かないで済ませようとする。描いてもテキストベースで描くことを中心にする。それ自体はとっても便利だが、結構面倒臭い。なので、どうしても簡単な図になってしまう。そのせいで、図が中心になるもの、たとえばDBスキーマだとかUMLの類だとかを敬遠しがちだ。

また、EmacsはEmacsで閉じさせやすい。それが便利さの元であることは確かなのだが、他のツールを使いたくなった時、Emacsバインドがなかったら、諦めて使わないか、「バインドを作る」という現実逃避に走ってしまう。そしてEmacsに閉じこもる。他のいろんなソフトが便利になっても、UIが改善されても、「Emacs引きこもり」には変わりはない。Emacsに使えない機能は、ないのと同じだ。

つまり、Emacsを汎用で使い続けるということは、「Emacsでないもの」を敬遠することであり、それは「新しいものを使う」「新しいものを改善する」ということの放棄につながり、「新しいもののキャッチアップをしない」ということになりがちだ。

相手がプログラマなものを作る時は、「Emacs教徒」以外は無視でいい。しかし、相手がコンシューマであるなら、そうは行かない。また、自分の仕事がクリエイティブなものだと思うのなら、「Emacsバインドを作る現実逃避」なんぞしないで、クリエイティブな仕事をするべきだ。何にせよ、「大衆の使うもの」に歩み寄らないことには、その方向での進化はない。

それを思うと、直接プログラム開発をすること以外の目的でEmacsを使うことは、いろんなことを妨げることになる。もちろん「やる気になればできる」わけではあるけれど、それは「頑張ってやる気を起こす」必要があるのであって、「やりたくてやる」のとはモチベーションの質が違う。

だから、もはやEmacsをありがたがってはいけない。Emacsをプログラム開発や、せいぜい文書書き以上のことに使ってはならないのだ。「エディタ使うならEmacsだよ」「Emacsは統合開発ツールでもあるよ」「文書書くのもこれでいいよね」までは言っても良いが、「Emacsのマクロを使うと、あれもこれもできるよ」というのは、もはや言うべきではないと思う。

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