車輪の再発明

コの業界の連中は「車輪の再発明」ということを極度に嫌うことが多い。その傾向はOSSな奴等になると、さらに強くなる。つまり、「他人が既に同じものを作っていたら、同じものをまた作るのは馬鹿げている = 再利用せよ」ということだ。

しかし、その「車輪の再発明」のどこが悪いのか私はさっぱりわからない。

車輪を再発明してたら、元の車輪より安いものが出来たら、それでハッピーだし、

車輪を再発明してたら、元の車輪よりいいのが出来たら、それでハッピーだし、

車輪を再発明してたら、キャタピラが出来たら、それでハッピーだし、

車輪を再発明してたら、なぜかエンジンが出来たら、それでハッピーだし、

車輪を再発明してたら、結局車輪にしかならなくても、金になりゃそれでハッピーだし。

むしろ、「車輪の再発明」を敬遠することによって、そういった「隣にあるイノベーション」に気がつかない損失の方が、はるかに大きいと思う。

この前やっていた、「画像認識システム」も、いろいろ考えればOpenCVでも使えばもっと簡単だったと思う。OpenCVにあるようなルーチンまで自作してたわけだから、作らずに済めばもっと早かった。

でも、実際にいろいろやっていたら、教科書には出て来ないいろんなことを経験し、それを解決するためにはいろいろ試行錯誤したし、その結果「ありもの」を使うよりもノウハウも出来た。「副産物」はかなり大きい。

いい加減頭が堅くなった年寄とか、凄く急いでいる時とか、自分が全く歯が立たない分野だったら、「車輪の再発明」を敬遠するのもアリだとは思うけどね。

車輪の再発明” への1件のコメント

  1. 「車輪の再発明」と言う言葉があるのを知りましたが、全く同意見です。車輪の再発明はするべきだと思います。私も若い頃は秋葉原によく通いました、懐かしいです。プログラマーは私もやりたかったのですが出来ませんでした。自動機械を制御するシーケンスのプログラムは経験があります。
    「車輪の再発明」をしても同じ「車輪」になるとは限りません、さてどんな車輪になるのか? 本当に私の考える車輪の発明をしてみようと思います。
    考えがまとまればブログに載せたいとおもいます。以下は書きかけでまとまってはおりません。

    車輪の発明をしてみる
     既に確立された技術を再びはじめから考えるのは「車輪の再発明」と言われ愚か者のする事だそうだが、私にも十分その発明をする資格がありそうなので考えてみたい。車輪の基本構造は本当に確立された技術で改良の余地は全く無いものであろうか、いやいやまだまだ未完成で改良の余地は有りそうだ。
     車輪の発明は古く人類の発明の中でも最古の最重要な発明とされており円形外周を持つ部材の転がり摩擦が小さいことを利用し物を移動させるために用いられ初めはコロとして用いられていたのだろう。後に車輪の中心に車軸を通して回転自在として車体や荷物の荷重を車輪が受けとめるのを基本構造とする機械部品となった。車軸は強度を要するため金属の車軸が現れてから発展したのではないか。何千年前の当時の技術では製作出来る最高の物であったのだろう。それ以降、車輪の基本構造は大きく変化することなく使われ続けている。
    車輪が広く使われるようになるには、平坦な道路が必要であり、最近ではスポークや空気入りのタイヤが用いられ地面からの衝撃を和らげる車輪が発明された。それによって軽量で高速な乗り物を作れるようになった。
    車を動かす動力は牛馬や人力であったが後にはエンジンが発明され比較的容易に車軸を介して車輪に動力伝達出来る様になった。車軸を車輪の中心の位地にしたのはその功罪が検討された訳ではなくまた後のエンジンの発明を予見していた訳でもなく単に技術的に作り易かったという理由からだけであろう。
    車輪を円形としその中心に車軸を通し車体の加重を受けとめるのを基本構造とするがその基本構造に帰因する不都合も有る様である。
    現実の路面には凹凸や石ころがありタイヤのつぶれ込みもありその衝撃力は車輪の接地面の車軸の真下より前方に受け車輪のほぼ中心方向に向かって伝わるが中心には車軸が在るため車体や荷物を上方やや後方に向かって突き上げる衝撃力となり、衝撃力の水平成分は車の速度を減速させる方向に働く。(図1)これは路面の凹凸や石ころによる衝撃力の伝達方向である車輪の中心に車軸を通し車体の重量を作用させた事に起因する。すなわち車体や荷物の重量を車輪に作用させる位地として路面には凹凸による衝撃力の伝達方向である車輪の中心は最適ではないのかもしれない。車輪に加わる垂直方向の衝撃はタイヤやクッションで緩和されるが水平方向に加わる衝撃力により速度の減速は避けられない。つづく・・・

コメントは受け付けていません。