中華街の手相見スゴス

IRCで「パンダまん」という話をしたので、中華街に行きたくなったので行くことに。

中華街に行くには、関内で降りるか石川町で降りるか、いつも迷う。今日は御徒町で乗ったので、電車の前の方にいた。なので、関内で降りることに。降りた途端、野球から帰る人達にぶつかり、関内で降りたことを深く後悔する。朝も昼も食わず、夕方になっていたので、空腹でよけいにイライラした。

降りると、さっそく「パンダまん」なるものを探す。

元祖無名わかりやすい豚饅

左が「元祖」とついていたパンダまんで、これは餡饅。中央は特に枕詞はついていない、これは肉饅。枕詞はない代わりに、店にはいろいろ口上が書いてあった。右のは誰が見てもわかる。豚饅だ。これ以上わかりやすい豚饅もなかろう。左と右は同じ店。どれも味はまぁ普通。まずくはないが、これよりうまい饅頭はいくらでも売っている。って今日はいったい何個の肉饅を食ったやら…

肉饅を食い飽きたところで、いつもの茶の店に行き、茶を飲んでまたーり。

その後、普段絶対に行くことがない「店」に行った。そこには何も売っていない。「うらない屋」だ(定型)。なんだか知らないが、中華街にはやたらに手相見が増えたようで、あちこちで客引きをやっていたのだ。誘われるままに、ふらふらっと入ってみる。

だいたい、私は占いなんてのは信用しないし(聖書にもそう書いてある)、運勢なんてのはイベントの波でしかない(パチンコやればわかる)と思っているのだが、手相だけは別格に思っている。手相で運勢がわかるとは思わないが、手には生活が出るし身体の一部なのだから、そういったことくらいはわかるだろうと思う。要するに「診察」の一種ではないかと。だから、いろいろプロファイルすれば、「こんな手の人はこんな傾向にある」くらいはわかるだろうと思う。他の生年月日だの易だのの類よりは、ずっと「科学」な気がするのだ。まぁ「別格」とは言ってもその程度だけど。

たいていの手相見は、「おせいどんアドベンチャー」にあるように、適当に誰にでもあてはまりそうなことを、ありがたそうに言っておけばいい。そうすれば相手は信用してありがたがるもの。手相見に限らず、占いの類はみんなそんなものだと思っていた。だから、極力断言は避けるし、誰にでもあてはまりそうな、毒にも薬にもならないことを言っておけばいい。それをありがたそうに、もったいつけて言えばインチキ占い師の出来上がりだ。つか、本人はインチキだと思ってなくても、こっちはそう思ってるし。

これは別に占いに限らず、未来予測なんてのは全てそんな感じで、方程式の解の解説である天気予報でさえ「明日の天気は晴れ時々曇り、ところによっては雨」みたいなことを言うものだ。株価のそれも似たようなものなのは、株をやる人はわかったこと。

ところが、その手相見は、随分と自信たっぷり気味に、私の強運を断言する(私の手相は教科書的にわかりやすい、はっきりした手相)。まぁそれくらいならサービスだと思うのだが、仕事の内容やら傾向、仕事にどう思っているか、また私が「経営者」であることまで強気で断言し、おまけにみんな当たっている。一部、「いや、そうじゃないんだけど」と反論したこともあったのだが(そして手相見は「いや、そのはずだ」とさらに反論する)、連れに言わせると私の反論自体が私の勘違いで、客観的には手相見の方が正しいらしい。

「連れ」の方にあれこれ言っているのも聞いていたのだが、これもみんな客観的には正しいことばかり。あそこまで自信たっぷりに断言されて、客観的に正しいとわかる部分がみんな当たっていると、「運勢」の部分もうっかり信じてしまいそうだ。「運勢」のところは別にして、「プロファイル」の部分は凄いものだと感心した。わからないことはわからないとはっきり言うところも、なかなか好感が持てた。

いったいどんなカラクリでああなるのだろう…