本物の田舎で「断捨離」は無理

身内に弔事があったので、郷里に帰った時に気がついたこと。

私の郷里は凄い田舎である。

ボクがものを作るわけ(2)

ストビューのダブルスタンダードについて

諸事情で家の周囲に若干の家が建ったし、徒歩1分くらいのところに葬儀場が出来て便利だったのだが、東京どころか松江から見ても田舎であることに変わりはない。それでもまぁ、近くに「本線」と名のつく鉄道が走り、1桁国道も通っていたし、今は高速道路が出来つつあるので、

同窓生達

の家があるあたりよりは開けてるんだけど。市役所まで車で10分くらいだし。

そんな田舎だとコンビニなんてないと思っていたら、「あるよ」という答え。聞くと、

車で5分

くらいのところにあるらしい。すげー便利になったものだw

うちの家は大きな家で、さらに農家らしく納屋もいくつもある。なんせ田舎なので土地が安い… てゆーか、自分ところの土地なんで建て放題だ。それをいいことに親父がいろいろ建てたものだから、たまにしか帰らない私は家の中で迷子になったりする(マジ)。

それだけ広い家だと、いわゆる豪邸然としているかと言えば、全くそんなことはなく、

ほとんどの部屋は物置

になっている。

この道の左側の建物も、私の郷里の家の一部だ。

私の感覚ですらゴミにしか見えないものであっても、大事に取ってある。もちろん必要に応じてそういったものは使われるので、はまちちゃんの言う

さっちゃんに学ぶ片付けの心得

なんてことは更々ありえず、とにかくその「大事に取ってある」箱を流用する。

世間で「ナチュラルライフ」を求める人達には「断捨離」が人気である。とにかく物を持たない、ミニマムな暮しをする。まぁ、それは

個人の宗教

の問題だから、是非は問うつもりはない。私は好きではないが、悪いというつもりはあまりない。強いて言えば、「自分が断捨離される側にはなりたくないなぁ」というくらいである。

ただ、郷里に帰った時に気がついたことは、

田舎では断捨離は無理

ということだ。

ナチュラルライフの極みみたいなうちの郷里で、断捨離するということは、

現代人らしい生活を放棄

することと同義と言って良い。

何しろ、田舎では物が手に入らない。都心生活をしている身だと、「あー、それは近所に売ってるし」とか思うものは、田舎ではそうとは限ない。てゆーか、ない。高々「中華鍋」みたいな普段使いのものであっても、田舎では売ってない。それどころか「弔事で使う薄墨の筆ペン」みたいなものですら、なかなか入手出来ない。コンビニに行けば売ってるだろうとは思うが、そのコンビニが

車で5分

である。車があるから5分で行けるが、なかったら徒歩だ。多分健脚でも片道30分、老人なら1時間とかかかるだろう。と言えば、弔事の時の世間話で「高齢になったので運転免許を返納したい」みたいな話があったのだが、田舎でそれは非常に厳しい生活と引きかえになってしまうので、どうしたものやらとゆーのがそれぞれの悩み事であった。

とにかく、必要な物資ですら満足に買うのが難しい。それが田舎だ。

じゃあみんなどうやって生活するかと言えば、

買ったものを捨てないでおく

ことになる。

必要だろうがそうでなかろうが、とにかく捨てない。出来れば余分に買ったり大量に買ったりして、「いつか必要になる時」のために保存しておく。私の郷里が物置だらけになっているのも、そういった本能からだ。そこでどんどん捨ててシンプルライフみたいなことをしたら、

必要なものがない

ことが起きてしまう。しょうがないので溜め込む。どんどん溜め込む。つまり、「断捨離」の対極になってしまう。

よく考えてみれば、「今不要なものを持たない」ということは、「必要になったら入手して来る」ということと同義である。それを否定するには、「必要を減らす」ことしかない。だから、「断捨離」をうまくやるには、

  1. 必要なものをいつでも入手出来る環境
  2. 必要なものをいつでも入手出来る能力(金とか人脈とか)
  3. 必要なものそのものを減らす

がセットでないと無理だということになる。そして、3を極端に進めれば「現代人らしい生活を放棄」することになってしまうので限界がある。つまり、継続的(モチベーションの変動に影響を受けない)に行えるのは、

都会に生活する金持ち

ということになってしまう。つまり、田舎では無理なのである。

まぁ、いらないものを捨てることはした方がいいけどね。