「誰も使わず。良かった良かった」だと?

@dankogaiがageなかったら気がつかなったのにねぇ。

おっさん。いい加減にせーよ。まぁ、この言い方はJISではなかったと思うけど。情報処理学会の偉い人達の一部がやっていたことのはず。

技術系の翻訳には大きく2つあると思う。それは文献が日本語で読めることそれ自体に主眼を置いた翻訳と、技術を日本に導入するという翻訳だ。普通の専門書の翻訳は前者であるが、JISのような「公的な翻訳」の訳語、あるいは「ターヘルアナトミア」みたいなものは、後者だ。そして後者は、非常に気をつかう。

コの業界の人は「カタカナ語」にあまり抵抗がないから、ついカタカナ語でいーじゃんとか思ってしまう。実際、それが普段使いなんだから、それで満足してしまうことに何の罪があろうか。前者の訳はそれでいいだろう。

ところが、「カタカナ語」には非常に残念なことがある。それは

英語でも日本語でもない

ということだ。これは、後者の翻訳が目指す、「技術の導入」という視点からは、あまり嬉しくない。こういった翻訳は単なる翻訳としての意味だけではなく、

標準化の一翼

という意味がある。そういった意味では、「日本語でも英語でもない」「カタカナ語」では、意味がない。「日本語として正しく読める語」であることが求められる。

「プログラム」を「算譜」と言ったりするのは、そういった先人の苦労の成果である。今日使われる語は、そういった造語のうちのごくわずかでしかないが、それでもそれなりの教育を受けた日本人であれば、初見であってもなんとなく意味がわかる語という意味では、悪い語ではない。

私がJISの委員をやっている時でも、みんな訳語には非常に苦労した。現代において、JISとは

ISOの翻訳

に過ぎないという面が少なくない。実際、JIS COBOLはISO COBOLの翻訳だ。とは言え、普通の本の翻訳と違うのは、上に書いたように「用語の統一」的な意味がある。だから、翻訳するということはすなわち

用語の提示

という意味がある。そういった役割を放棄して、「カタカナ語」を使えば、とても簡単である。しかし、西村恕彦先生いわく

カタカナで済ますくらいなら、ISOのままでいい

ということだ。そりゃそうだろう。わざわざ「日本の規格」として出版するのだから、「正しい術語」が定義されてなかったらJISの意味がない。正確さで言えば、原語のままで読む方が断然良いのだから。

そんなことがあるから、JIS化の時の会議のほとんどの話題は、

訳語の統一

だったと言っても良い。ISOがJISになるまでの、何年という時間は、そこにかかったと言って良い。その経験があるものだから、「実践Node.jsプログラミング」の監修は、随分と用語に細かい注文をつけたものだ。

そうやって苦労して訳した、あるいは作った語であっても、時代と共に原語の意味が変化する。一例を挙げると、COBOLの「OBJECT COMPUTER」の「OBJECT」が指すものは、当初は

object module

であった。つまり、高級言語を機械語にしたモジュールを指していた。ところが、今日「object」はもっと意味が広くなっている。「高級言語を機械語に翻訳したもの」的な言葉の延長上にない。しかし、どちらも「object」なので、違う語を与えるのもおかしい。

ここで整理してしまって、「言葉は時代と共に変化するんだ」とばかりに、用語の整理をしたとする。そうなると、世の中の様々な教科書や試験問題の類を全て改訂することになってしまう。また、そういったことを学んだ人達に対して、知識の整理を要求することになる。それはそれでナンセンスだ。

IT用語を「正しい日本語」にするのは、こういった苦労が裏にあるのだ。もちろん、苦労したからと言って結果の正しさを担保するわけではない。とは言え、これを軽々に「誰も使わず。良かった良かった」と言って良いものか。

件のおっさんがどんだけの働きをした人かは知らない(ことにしておく)。しかし、たいてい

成果は先人の屍の上に築かれる

ものだ。「屍」そのものは単なるゴミに過ぎない。しかし、「屍」があるから今日があるのだ。おっさんも大量の「屍」を築いただろうし、いずれ「屍」になって行くだろう。それを全て否定されて嬉しいかい?

もちろん、苦労は結果を担保しない。だからと言って否定して良いものではない。先人の「屍」は、感謝しつつ踏み潰すもんだ。