使いこなそうとする悪いクセ

gitのこのエントリがちょっと盛り上がってた。

gitの良さがいまだに分からない

本文もブコメも読んだのだけど、ほとんどの人が「使いこなせてない」ということを問題視しているように見える。

gitのエントリはいつもそれなりに話題になり、それぞれ面白かったりタメになったりするのだが、いつも何らかの既視感を感じていた。ずーっと考えてみたら、それはかつての

TeX

にあったことによく似てる。

「往時のTeX」も「今のgit」も、

  • 割と誰もが使うことになる
  • てゆーか使ってないと恥ずかしかったりする
  • 結果は素敵だけど学習コストは低くない

という点でよく似てる。だからこそ「ノウハウ」の記事がいっぱい上がり、それらについてあれこれ言われ、また「哲学」みたいな「作法」みたいなものも議論になる。

近頃はTeXを使うことが減ったのではあるけど、昔はTeXはよく使っていた。TeXと言っても生TeXではなくて、LaTeXではあったが。gitも「今さらcvsでなしsvnでなし」ということで、日常的に使うものになっている。

個人的にはこれらは、

しょうがなく使うツール

という位置づけで、「資産」とか「継続性」の問題さえなければ、いつでも他のものに移りたいと思いながら使ってる。つまり、「TeXサイコー」とか「gitはネ申」とか思って使ってるわけではない。単に使っているだけである。

だから、いろんな「技」の類には極力手を出さずに

やりすごす

ような使い方だ。つまり、

  • 使える最低限のところまで学習
  • わからなかったらググればいい
  • 都合のいい機能だけつまみ食い

ということにしてる。

はっきり言えば、

全く使いこなそうと思ってない

のである。

「今時のもの」はたいてい高機能だ。それはgitでもExcelでもiPadでも同じだ。下手すれば一生使っても全く使わない機能とかあったりするくらいだ。そういった状況を見たりすると、根がケチ貧乏性な人は、

使いこなさないともったいない

とか、つい思ってしまう。あるいはgit flowのような「意識高い使い方」をしないと格好悪いとか、つい思ってしまう。もちろんそれで成功する人も多いだろうが、

ツールに使われてしまう

人も少なくない。

この「使いこなさないといけない」という脅迫はなかなかに厳しく、ネットで入門系の記事を見ると、「○○を使いこなす」とか「○○の××は使いこなせるか」みたいなのを大量に発見する。

でも、はっきり言っておこう。今時のものを「使いこなす」必要性なんて、

たったの1mmもない

のだ。gitを使いこなしたところで、Linusから年賀状が来るわけでもないし、Excelを使いこなしたところで、Officeの値段を下げてくれるわけでもない。iPadを使いこなしても、

とかくれるわけでもない。

「ツール」を使う意味とは、

あなたを幸せにする

ことである。つまり、あなたが抱える問題、それをうまく解決出来るかどうか。これが第一である。そして、それから何段か下がったところに、

当面使えるかどうか

という条件がある。たったそれだけだ。

今さらgit以外のバージョン管理システムを使う意味はあまりない。みんなが使ってるし、ツールとして新鮮だし、いろんな周辺ツールも揃っている。だから、gitは使うべきだ。

他方、gitの特徴とされる、「分散バージョン管理」やそれにまつわる諸々が必要かと言えば、それはぞれぞれの現場のワークフローに依るだろう。cvs時代に作られたルールで現場が問題なく回っているなら、別にそれで構わない。今や廃墟同然となったcvsを捨て、新進のgitを使う。でも、使い方はcvsだ… でも何ら問題はない。

確かに「新しい機能」を使わないのは「もったいない」し「使いこなせてない」と言えるだろう。しかし、それで不自由がないのであれば、そんなことはどうでもいい。

もちろん新しいツールの新しい機能を使ってより改善されたワークフローが使いたいのであれば、それを機会に採用するのはアリである。しかし、順番としては、あくまでもワークフローの改善が先にあって、そのツールがそこにあるという捉え方をするべきである。

「新しいツール」には新しいなりのいろんなものがある。逆に古いツールにあって廃止された機能もある。そういった「違い」はあるにせよ、基本的には

人間が先、ツールが後

である。使いこなそうとして逆に使われるようなのは、馬鹿げた行為である。間違っても全部の機能を使ってやろうなどとゆー貧乏な根性は、最初に捨ててしまうべきだ。

あのな、

「バイキング料理」は全部食べなくていい

んだぜ。今どきのものの「機能」って、全く「バイキング料理」みたいなものだとは思わんか?

蛇足

前にいろんなところで「4Kテレビなんて意味がない」と言って来た。その考えに変わりはない。

ところが、最近新しくテレビを買う人には「4Kにしなせー」と言うことにしている。

「なんだ宗旨替えか?」とか思われるかも知れないが、このエントリを見たらなんとなくわかるのではないかと思う。今や「4Kテレビ」は十分値段が下がって来た。また、新しいテレビの開発リソースは4K 8Kに向いていることもわかる。つまり、「みんながgitを使っている」状態にある。そこで無理して2Kやそれ以下のテレビを買う必要性はない。確かに4Kのソースは、いまだにない。でもそれは

gitだからといって、無理して分散リポジトリにする必要はない

というのと同じことである。

ツールとはそういうものだ。