小飼さんの言ってることももっともではあるが

人を育てられると思ったら負けだと思っている

よく読めばもっともだと思うことではあるのだが、あまりにタイトルがキャッチーなものだから、この言葉だけが一人歩きするのではないかという気がする。

人は育てるものではない。育つものである。その業種における育ち方、あるいは自分の育て方を会得できない者は、残念ながら上司や会社がいくら頑張ってもムリである。

前半は全く正しい。しかし、後半はおかしい。

逆に、本人にせっかく育つ能力があっても、それを上司や会社が邪魔をしては、当然その能力が日の目を見る事はない。今回のケースは、明らかに後者である。

こちらは、前半は正しいが、後半はどうとも言えない。

と言うのは、このエントリは重大な視点の欠落がある。それは、「素質を見い出す」ことである。

昔、「コージ苑」にこんなのがあった。

八百屋のおばさんに説明が書いてある。「このおばさんは物理学者になればノーベル賞を取る素質がある」「しかし、八百屋のおばさんである」

もちろん漫画の上の話ではあるが、それは「ありうること」だろう。

この「おばさん」は、育つにまかせていた結果、「八百屋のおばさん」で終わってしまっている。仮に誰かが「このおばさんには物理の才能がある」と見い出す人がいたなら、ノーベル賞を取っていたかも知れない。本人が幸福かどうかは別の議論として、そういった「素質」が眠ったまま終わるというのは、「人類の損失」ではないかと思う。

自分のことふり返ってもそうで、「上司」のいろんな小細工があったからこそ、現在があると思っている。仮に私が「育つ」に任せられていたら、いまだにFORTRANのプログラムを書いていたような気がする。「自分としての方向付け」はそっちの方を向いていたからだ。

確かに、ウサギをどんなに教育したところで、犬にはならない。だから、そういった育て方は無茶である。しかし、「犬」は育て方でいろいろな「犬」になる。それには「この犬は何に向いているか」を判断して、方向付けて育てる必要がある。放っておけば「野良犬」になるだけである。

「人と犬とは違う」と言う意見もあるだろうが、「育つ」にまかせてしまえば、本人は「その時点で好きなこと」をやるだけだ。「未来にもっと好きになること」にも気がつかないし、「好きではないけど素質のあること」を手掛けることもない。そういったものを見い出して、動機付け方向付けするというのは必要である。

おそらく小飼さんは、「ウサギは教育で犬にならない」と言いたいのだろうが、多分たいていの人が「犬を野良犬にする」方に解釈してしまうような気がする。小飼さんのポジションからすると、そう思い込む人がいてもおかしくない。しかし、せっかくの「シェパード」を「野良犬」にしてしまうという危険性があるのは、どうももったいない。

このことは、実は私がオープンソース界で嫌いなことの一つである。

「オープンソース界」は敷居が低い。「入会制限」がある訳ではないから、地球上全ての人がそこに入る資格がある。しかし、そうなる人はそんなに多くはない。なぜなら、現状の「オープンソース界」と言うのは、「個人的モチベーション」で入る世界であるからだ。つまり、そこが「好き」だから入るのである。

ところが、「好き」であることと「素質がある」ということは別だ。「素質がないのに好き」な人は、いずれふるい落とされるだけであるから、それ程害はない。好きなことをやってみることそれ自体は、経験としては悪いものじゃない。

しかし、逆に「素質がある」のに「(まだ)好きでない」という人達が入って来ないのは、もったいない。もちろん「もっと他の才能がある」というのであれば、何もこんな世界に入ることもない。だが、「ノーベル賞を取る素質」が生かされないのは、双方もったいない。

一部の(特にオープンソース万能主義者に多い)「評論家」は、「いずれ世の中のソフトウェアは全てオープンソースになる」とか言う。ところが「参入者」を増やすために「個人的モチベーション」に全てを頼るような考えを持っている。これはある種の自己矛盾である。

だからあえて、

「人を育てられると思ったら負けだと思っている」というのは間違いだ

と私は言いたい。