「過去のクソ」が肯定出来るかどうかで、「今の幸せ」が見える

えがちゃんが頭がおかしくなったのか、変にマトモなことを言っている。

「飲みニケーション」とかの次元じゃない”若手”の仕事の楽しみ方

私はこれは極めて普通のことを言ってると思うので、このエントリに

死ぬ気で働くと本当に死ぬから

とか

「仕事=人生」以外の価値観は認めないw。

とかって反応は、「馬鹿なの? 死ぬの?」って思ったんだけど、どうもそうじゃないらしい。まぁネオニートの人はいつもの調子なんで、えがちゃんほど頭がおかしくなった感ないけど。

twitterでも見てると件のエントリに肯定的な人も否定的な人もいたんで、「馬鹿なの? 死ぬの?」は撤回。まー、感じ方は人それぞれかなと。でも、次に思ったのが表題のこと。

私の思ったことは、だいたいのところをさやまさんが言っているので、ポインタだけで屋根に屋根を重ねることはやめとく。

会社とのつきあいかた

まぁ私の言葉をつけ加えるなら、「10年も泥にいなくていいけど、最初の数年くらいは泥に埋まるのも悪くないよ」ってこと。そもそも、そーゆー「クソみたいな経験」は実際にやってみないと、本当にクソかどうかわからない。また、ある人にとってはそれはそれで幸せかも知れない(誰もが上昇指向を持つべきなんて、どこの国の宗教だ?)。そういったことを知る経験を積むのは、それから後をクソにしないためにも意味がある。

「肉饅」と「花巻」の区別は、
半分くらい食わないとわからない

わけで、クソかどうかわかるまでくらいは食ってみるのも悪くない。そうしないと、「社会人」に必要な、その仕事が

クソかどうかを知る能力

が身につかない。いつもママが「これはクソ」と教えてくれるわけでもないし、仕事には時々「美味しそうなクソ」があったりする。そういったのがわかるようになるためには、やり直しコストの低い就職してすぐあたりにクソ食っておくのは悪くない。

ってーのはいいとして、件のエントリへの賛否を見ていて思ったのは、その人達の「今」が見えたような気がするのだ。

表題にも書いたし、「10年泥」でも書いてるんだけど、こういった「クソみたいな経験」を肯定的に書けるかどうかってのは、「今」に対して肯定的かどうかじゃないかと。これは、

若い頃の苦労が「自分への投資」だなんて経営者が安くこき使うための口実だったとわかった

というのでもわかる。

確かに若い頃の苦労を自分への投資と説明するのは、「安くこき使うための口実」でもあるなと思うけれど、「投資」であることも間違いじゃない。でも、「投資」に価値があったかどうかってのは、それで何かを得られたかどうか、つまり結果で決まる。本人が「投資」のつもりでも、「溶かす」ことはあるわけだし。でも、そういった「クソ」みたいな経験であっても、何かを得られて自分のためになっていれば「肥やし」だろうし、何も得てなければ「単なるクソ」でしかない。

確かに過去のクソ経験を自慢ったらしく話されれば、「ヤンキーのDQN自慢」と大差ないから、あんまり格好いいもんじゃない。まぁ「そんなこともあった」程度に留めておくのがいいと思う。それに、ごく下っ端の頃は別にして、PMとか管理職とかやってて「クソ経験」ってのは、何割かは自分の責任だから黙っておいた方がいいと思う。

でも、その「ヤンキーのDQN自慢」も

今が安泰だから自慢話になる

わけだ。つまり、その「DQN」が自慢になるか後悔になるかは、今が安泰かどうかで決まってしまう。人は自己肯定したがる生き物だからだ。

だから、「社畜になんなよ」と警告するのはいいんだけど、件のエントリみたいなのをあんまりボロクソにdisると、

何かあるの?

と思われてしまうから気をつけた方がいい。「んなことねーよ」って思ってるんだったら、もっと軽く書いておいた方いいんじゃないかな。