ふぁぼったから。
dankogaiはあれだけ本を読んでいるにもかかわらず行動パターンがまったく変わらないので、「本を読んでも人間は変われない」という説の動く実例みたいになってる。商売としてあれはどうなのか。
dankogaiの人気嫉妬する君の気持ちはわかるけど、多読して人間が変わるのは、むしろおかしい。また、私はそうならないために、多読する。
本は著者の思想を表現するもの。それは著作物だから当然だ。そして、人の思想は多様なもの。人間だから当然だ。
多読するってことは、様々な思想に触れることになる。意識して多読する人、特に同じ分野の本を多読する人は、「異論」を求めて読んでいるはずだ。
読書は人を動かす。これは確かだ。著者の思想が注入されるのだから、影響の多少はあっても動かないわけがない。また、著者はそれを思いながら著述する。これは人を動かす力になる。
しかし、大量の「異論」によってかかる力は、方向も大きさも様々だ。つまり、ノイズと同じで、
ベクトルの総和は0
になる。だから、多読すればする程、人は外因的には動かない。まぁ力のかかる対象が十分小さければ、力が常に平衡しているわけじゃないから、ブラウン運動のようなランダムウォークをするだろうが。
本とか情報にはそんな性質があるから、私は意識して異論を求める。ある本に白と書いてあれば、他の本も見る。だから、うちには同分野の本が大量にある。新しく学ぶ分野の入門書も大量にある。
そういった「ノイズ」に見えるものを情報にするのは、「整理」であり、それは「選択」だ。その「選択」は、その人の経験や環境、あるいは意識といったものによる。「多読」によって得た情報は、その裏づけにするために選択されて使われる。
だから、「あれだけ本を読んでいるにもかかわらず行動パターンが全く変わらない」というのは、因果的におかしい。「あれだけ本を読んでいる」のであれば、「小さいもの」であればランダムウォークするだろうし、「大きいもの」はどこにも動かないもの。まさか「行動パターンが変わる」ということに、ランダムウォークを期待してるわけじゃないだろう。だいたい、「不惑」にもなった奴が、思想的ランダムウォークなんてみっともないだけだ。
だから、何かの方向性を持った上で行動パターンが変わるかどうかは、多読したものを
どう選択しているか
であって、それ以上でもそれ以下でもない。
これが読書量の少ない人であれば、あるいは偏った読み方をしている人であれば、読書によって変わってしまうのは不思議でも何でもない。あるいは「自分」の存在に自信がなければ、ランダムウォーク的に変化するだろう。でも、そういった変化は「かぶれる」とか「毒される」の類であって、実はその読書は自分のものになっていない。
単なる鵜呑みを勘違い
しているだけだ。「この本を読んで人生変わりました」とか言ってる奴は、本の読み方が足りないか、その程度の主体性しかなかっただけで、何の自慢にもならない。本を読むのは、あくまでも
知らなかったことを知る
ために過ぎない。だから、「この本を読んで目が開かせられました」というのが、良書に対する賛辞なのだ。「目を開く」ためであれば、思想主張的に一致しているとかはあまり関係がないし、多読する方がその機会が増える。
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思想的なベクトルとは別の次元方向への「変化」があるのでは。仮に主義主張のベクトルが2次元にマップできるとして、まんべんなく多読していればその平面内では動かないでしょうが、垂直方向に発展してより広い視野を得られると。
本エントリの後半「目を開く」の話はそれに言及しているようですが、だとすれば「多読で人は変わらない」というタイトルとは矛盾してしまいますね。主義主張が変わらなくても、異なる立場に対する寛容度が増したり、多面的な理解ができるようになったとすれば行動パターンも変わり得るでしょう。
ああ、人が多読で変わるなら、確かに「上」ですね。でも、「上」に変わっても平面しか見えなかったら、同じにしか見えない。
ただ、元ネタが平面内っぽいことを期待していたように感じられるので、そういった意味では変化しないと。