やっぱりクリプトンは暴走だと思うなぁ…

例の「白いクスリ」の奴。

クリプトンは自分達の権利として、「うちの嫌なことには使わないでね」と言う権利を持っている。少なくとも利用契約にはそう書いてある。みんなそれを承諾して使っているんだから、「俺、その使い方嫌だかんね」って言えば、とりあえずは公開中止に出来る。その判断が良いかどうかってのは、またいろいろあるだろうし、その時はその時で議論すりゃいいと思う。これについては、

キモヲタざまーーーーwww

で書いたんで、繰り返すつもりはない。

「暴走」だと思うのは、これがそういった理由ではなかったから。クリプトンがそう判断した理由はいくつかあるらしいので、

「碧いうさぎ」替え歌「白いクスリ」、削除申請の理由をクリプトンが説明

とか、

ニコニコ動画における動画削除について

とか見るといい。

ここで私が「暴走」だと思うのは、クリプトンが

善悪の判断

をしてしまったということ。とか書くと、「善悪の判断は子供でもするもの」と言い出す奴もいるけれど、世の中ので一番難しいのは「善悪の判断」だと言っていいくらい難しいものだ。「子供でもする善悪の判断」なんてのは、ごくごく単純なものでしかない。また、「善悪」なんてものは相対的なものでしかないから、常に動くものでもある。

とは言え、「善悪の判断」は恣意的であってはならないし、同じ規則がいつも適用出来なければ運用が出来ない。ただでさえ境界線上の判断は難しいわけで、ルールがあいまいであればそれはさらに面倒なことになる。だから、「善悪の判断」の基準は明確であるべきだし、またそうしたところで常に不十分なものになる。

酒井法子の件で不起訴にあれこれ言われているようだけど、既存のルールの中で不起訴であるなら、いかにそれが不条理に見えても不起訴であるべきだ。もちろん起訴相当の新材料が見つかれば起訴で良いのだけど。だから、起訴したければルールを曲げるのではなくて、材料を探すべきだ。

こういった「あいまいな基準」があると、普通の人は萎縮し、「冒険者」だけが暴れ続ける。「創作をする」ということと、「冒険者である」ということは、必ずしも一致しないわけなので、「創作能力はあるけど萎縮しちゃう人」とかだと、抑制側に動いてしまう。

これは「創作」についてだけど、何事もそうだ。規則があいまいであれば、常識的な人はなるべく境界線から遠いところにいようとする。いわゆる「自粛」って奴だ。

仮にこれが「嫌なんです」という理由であれば、その心情をはかればいい。いわゆる「思いやり」があればいい。それが合理的であろうとなかろうと、「嫌なものは嫌」なんだからしょうがないし、それをわかった上で付き合えばいい。そして、実は判断もしやすい。

でも、「善悪の判断」になった時点で、一気に萎縮側抑制側に考えなきゃいけないことになる。「善悪の判断」は恣意的であってはならないけれど、それは恣意的に運用されがちであるということの裏返しでもある。そういったことに抵触しないためには、萎縮しておいた方が無難だということになってしまう。

そういった意味では、「白いクスリ」を消す理由に、一見客観的であるかのような理由はむしろ有害でしかない。「弊社としてはこのような使い方はしないで欲しい」と宣言し、いくつかの想定される具体例を挙げておけばそれでいい。