よく売国的な評論家は、日本の諸々を評して「ガラパゴス」と言う。
そのココロとして、「日本に最適化した技術は海外に通用しない」ということがあると思う。確かに環境への過適応は環境変化に弱い。恐竜が滅んだ理由の一つも、そういったものだと言われていたりもする。
しかし、「日本に最適化した技術」は「海外に通用しない」ものだろうか?
私はアニオタではないので、「日本のアニメは世界に通用している」というつもりはない。実際のところをよく知らないし、その要因についてもよく知らない。だから、この分野で語らない。
その代わり考えてみたいのが、「日本」という環境が特殊だと言えるのだろうかということ。
この話で私がすぐに思い出すのは、昔通っていた教会の牧師との会話。その牧師は正確には宣教師。つまり、外国人で、教団のつながりもあってアメリカ人だ。彼はバリバリに保守派の人で、南部出身。キリスト教と言うよりも「アメリカ教」だった。
20数年前のことだけど、私は彼にLisaを貸した。タイプライタが壊れて書きものが出来ないと困っていたからだ。その時に「こいつは日本語が使えない」という話になって、彼が
「日本人も英語を標準語にすれば
コンピュータを使う時に不便じゃない」
という主張を始めた。普通の人はjokeの一種だろうと思うが、彼は本気でそれを主張するアメリカ至上主義者だ。
これは言語の例だからわかりやすいけど、同じようなことを言う奴は大勢いる。いわゆる「ぐろーばるすたんだーど」を主張する奴等はこの手合だ。まぁそんな経験があるから、「ぐろーばるすたんだーど」なんてものは信用しないんだけど。
その当時は、アジアなんて日本と台湾の一部を除けば後進国で、「発展途上国」と呼ぶのもはばかられるような地域だった。韓国なんて数年前の中国みたいなものだし、中国はそもそも「竹のカーテンの向こう」でしかなかった。「ソ連」も健在だった。だから、「コンピュータは英語が標準」というのを素人に話しても、今の「ぐろーばるすたんだーど」くらいの信憑性はあった。
私はその頃から、いろんなソフトの「日本語化」を始めた。私だけじゃない、海外のソフト屋も日本市場を狙って日本語化を始めた。日本語化という作業は日本人にとっては必須だけど、「外国人」にとってはどうでもいいことだった。それでも「日本語話者1億人」は市場としてそれなりだから、そのマーケットが欲しい人達がやっていたわけだ。私は自分で使うソフトが日本語で使えると良いなと思ってやっていた。その辺のことは「256倍」にも書いている。
「日本語化」は要するに「ガラパゴス化」である。日本語という特殊な環境に適応させるわけだから、下手するとブランチしてしまって最新追従が難しくなる。当時(10〜20年くらい前)は、「英語版と日本語版のバージョンが違う」なんてのは、珍しくないどころか当たり前ですらあった。凄く「ガラパゴス」だった。
「日本語」を意識してプログラムを書いていた人達は「文字とバイトは違う」という認識を持ってプログラムを書いていた。意識してない人達は、文字はバイトどころか符号までつけていた。かつては、getcの返り値はsigned charでありEOFは(-1)だった。それに何も疑問を持たずにプログラムを書いていたのが、アメリカ人達だった。
ところが時代が下がると、世の中は変わって来る。韓国は「IT大国」を自称するようになるし、中国は市場開放を始める。ベトナムはオフショアとして存在感を持つようになる。これらに共通するのは、「1バイトでは表現出来ない文字」を持っているということだ。
市場規模は小さくない。CJKVを全部ひっくるめれば、いわゆる「欧米」よりも人口は多い。もちろん全部が潜在顧客とは言えないだろうけど、市場を考える時に人口は大きなファクターだ。
20数年前ならコンピュータを使う人は「特別な知識人」だったし、それゆえ「英語を標準」にしていれば良かった。でも、今や「普通のもの」になってしまったから、母国語で使いたい人が増えている。かつて多バイト文字に対応することは、「ガラパゴス化」だと思われていたことが、今は逆転している。
日本という国は、わりと厳しいビジネス環境を持っている。消費者は過剰に品質を気にするし、元々資源が少ない上にゴミの処理も難しい。「新発売」は大好きだし、「多機能」も大好きだ。表向き教育や生活が平準化されているものだから、DQNが一人前の顔をする。老人も多い。「三流マスコミ」の国でもある。
でも、よく考えてみれば、これはある意味「完成された先進国」の一つの姿だ。「うるさい」の類はどこの国でもそうなりつつあるし、資源やゴミの問題は近未来の人類共通の課題だ。そのくせ「製品への要求レベル」は上がるし、社会の高齢化は進む。世の中平和になる代わりに、マスゴミは必死でニュースを捏造することになる。
つまり、かつての「日本語化」が「ガラパゴス化」から世界標準になったのと同じように、「日本社会への適応」も
近未来の先取り
になってしまう可能性のあるものが少なくないのだ。
だからと言って、過適応が肯定されるというものでもないけれど、単純に「日本への適応」を「ガラパゴス化」と非難するべきでもない。「日本固有」に見えるものの中にも、単なる過適応もあれば、「近未来」なものもある。「ぐろーばるすたんだーど」という名の「アメリカ標準」を盲信したり、出羽守になってもしょうがないのだ。
ごもっとも。
ガラパゴスってそういうことじゃないと思いますよ。過剰最適化という面から見るとそうかもしれないですけど、むしろ本質は外界との断絶。
この言葉を最初に言ったのはslashdotのkazekiriさんで、日本のオープンソースに対してです。
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0412/01/news009.html
むやみにforkして本流と離れるなかれ、という話ですね。
この言葉を国内の携帯電話に転用した人は何人もいると思いますが、自分もその一人です。国外でまったく通用しないものを国内だけで盛り上げちゃってるというところが先の話に似てたからですね。
個人的には、もっとうまくやれば今頃日本のモバイルウェブが世界の中心で、モバイルGIGAZINEの日本語記事をモバイルGIZMODEが英訳して配信してるような状況があったのではないか、という思いも込めて「ガラパゴス」と連呼しています。
> むしろ本質は外界との断絶
「断絶」の方は、私は幻想だと思ってるので、論評する気はないです。
あと、昔も書いてますが、無理してグローバルに出ることには、個人的には賛成しないです。
無理して巣立つこともないでしょう