三次元ヌードがどうとか

一部で話題らしいんだが。

三次元ヌードへの拒否反応

別に高校生や専門学生でなくても、初めてだと結構拒否反応はあると思う。それも、自身が童貞でなくても。

私が「生のヌード」を見たのは、前の会社の客のところが初めてだったと思う。それはインターネット黎明期の「チャットしながら女の子が脱ぐ」なんつーサービスをやっている客のサーバのおもりの時だ。こっちはコンソールに向かいながら、後では「セット」を組んだところでおねーちゃんが脱いでいた。チャットの方はそれなりに技術が必要だから実際にはスタッフがやっていた。

興味ある人がいるかも知れないんで、本筋とは関係ないけど、この辺をもうちょっと詳しく書くwww

前の会社を始めた頃、主な客はそういった「モデムでpppを受けてダイヤルQ2でエロ画をサービスする」ところだった。なんたってまだLinuxが「何それ? 食えるの?」みたいな時代だったので、そういったキワモノみたいな客ばかりだったのだ。幸いにも当時のLinuxは「多回線でppp受けながらweb serverを動かす」なんてことが、1台のサーバだけで出来たので、とてもC/Pの良いシステムだった。おまけに遠隔監視も出来るし、当時のWindowsNTみたいにわけのわからない理由でコケたりもしなかった。

その中の「先進的な客」が、それまでの静止画では飽き足らず、ストリップみたいなことをストリーミングでやりたいと言い出した。当時は今のようにFlashで動画を流すようなことは出来なかったし、いろんな動画チャット系のソフトはオープンソースでなかったり、クライアントに特殊なソフトを入れなきゃいけなかったりして使いものにならなかった。また、回線も今とは桁違いに遅かった。しょうがないので、jpegをパラパラと流すようなシステムを作った。いろいろイマイチなんだけど、システム設計的には妥当なところだったのだ。

そういった客は、ビルの小さい部屋を確保して、そこにサーバとモデム群を置いて運用していた。そして、それとは反対側のあたりに「セット」を組んで「女の子の部屋」っぽいものを作っていた。客目線だといかにも女の子がチャットしながら脱いでるように見えるのだけど、実は女の子がチャットしている画は「ふり」だけで、実際のチャットはスタッフがやっていた。当時女の子でチャットが出来る程キーが打ててルックスもそれなりというのはあまりいなかったということと、「演出」のためだった。それに、チャットしながら脱ぐってのは、実はなかなか大変だったのだ。

「番組」は30分くらいだったかが単位だったかな。タイムテーブルはあらかじめ公開してあったと思う。それを見て、接続して来るわけだ。もちろん会話の進行に合わせて脱ぐわけだけど、脱いでしまうといきなり回線が切れてしまうので(男ってわかりやすいよなぁ)、なるべく「脱ぎそうで脱がない」ようにするというのが、演出の腕だった。だからこそ、本人じゃなくてスタッフがキーを打つわけだ。もちろんその会話のネタはスタッフが女の子と会話して決めるので、まるっきり台本通りというわけではないし、「作った」ものでもなかったと言える。まぁ進行は管理されてしまうんだが。

でまぁそんなことをやっているところに、設定やメンテしに行くわけだ。回線増やしたりすると、負荷とか監視しながらデータ取ったりして次のシステムに活かすとか、光量やピントを調整したりとか。

そんなサービスをやっているんだから、当然女の子はそこで脱ぐわけだ。

この時、既に私は童貞ではないし、風俗もそれなりに経験している。だから、「女の裸」が初めてだったわけじゃない。ところが、自分の横のあたりで女の子が脱ぎ始めたのは、かなりショックだった。

よく考えてみれば、それまで見て来た「女のヌード」ってのは、セックスとかそれに準じる行為のためだった。そりゃ子供の頃見たそれ(従姉妹と風呂入るとか)はそういったのとは関係ないのは当然だけど、それだって「当事者として自分が参加している」という点では同じだ。ところが、メンテの時に見た「女のヌード」ってのは、私とは直接何の関係もない、そして触れることすらない、「他人事としてのヌード」だった。自分はその「ヌードになった」ということに参加しているわけじゃないし、彼女に「脱いでくれ」と頼んだわけでもない。

文章で書けばたったこれだけの違いだ。だけど、それを目の当たりにするとショックだ。それまでストリップすら見たことがなかったので(初ストリップはその何年も後のこと)、「他人事としてのヌード」なんて見たことなかったし、この他人事としてのヌードから受ける印象が、「当事者としてのヌード」とまるっきり違うということを知ったのも初めてだった。

こちとら童貞じゃないから、「女のヌード」ということ自体でどうにか思うことはなかったのだが、「他人事としてのヌード」というのは異様な感じだった。

リアリティという意味では、むしろ「当事者としてのヌード」の方が大だ。いろいろ触って確かめることも出来るわけだし、近くで見るのも自由なんだから。でも、この「他人事としてのヌード」はそれとはまた違う感情がわいて来る。私のために脱いでいるわけでもない、私に見せるつもりでもないのに、私の目の前で脱いで私に見られている。カメラや光をいじっている時は、それこそガン見だ。

彼女はそういったモデルとして来ているわけだから、彼氏でもない私に裸を見られてもどうとも思ってなかったかも知れない。でもこっちは初めてなものだから、「この娘、平気なんだろうか?」「この娘、何を考えているんだろうか」とか、いろんな思いが去来する。それは彼女が

生身の人間

だからだったと思う。生身の人間は感情を持っているということを知っているがために、その感情のことを思ってその自分の思いに一種の「自家中毒」を起こしてしまったわけだ。まぁ幸いにしてこちらは「大人」なので、そういったものは「妄想」に過ぎないと納得させつつ、仕事を片付けたわけだけど。

だから、件の「拒否反応」ってのは、そんな思いもあったんじゃなかろうか。届いて来る情報が大き過ぎて、感情が飽和しちゃったんじゃないかな。若い頃とか、女性経験がなかったら、「感度」は十分高いままだろうから。

三次元ヌードがどうとか” への1件のコメント

  1. ヌードでも石膏でも、デッサンの授業って生身の人間を見る目線でやると成績悪いんだよなぁ。
    「光を反射する物体」として描けてないと再提出とか良くある話。
    あまりに「おっしゃるとおり」なんでつまんない。

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