雑草は全部抜いとけ

どこだったか2ちゃんのまとめサイトを読んでて思い出したネタ。ミントは庭に植えちゃいけないとか、そんな話。

なんでいけないかと言えば、根絶が難しいから。もうどんどん増えてえらいことになる。前に行ってた教会でも、うっかり牧師が庭に植えたもんからえらいことになって、なかなか根絶出来なかった。ちょっと根が残ってても、そこから勢力盛り返すんだから凄いもんだ。

という園芸の話とは関係があってないようなもの。

どんな場でもいいけど、意見が集まる場には「少数意見」というのがある。で、多くの場合これは無視される。「尊重する」ということにして盛り込むこともあるのだけど、それ自体はあくまでも「少数意見」として扱われる。

この「少数意見」が多数意見や自分の主張と背反する時、たいていは黙殺する。つまりスルーだ。多くの場合、その場はそれで収まる。なぜなら多数がそれを支持していないからだ。反論して叩き潰しておくコストも小さくなかったりすると、黙殺で終わらせるものだ。

表題で言っているのは、この「雑草」は綺麗に片付けておけということ。

その場で全てが終わってしまうのであれば、少数意見はスルーしちゃってて何の問題もない。場を収める基本原則は

最大多数の最大幸福

だからだ。もちろんいくら「最大多数の最大幸福」と言っても、「○○さんが全財産を使ってみんなにおごる」みたいなのはダメだ。場合によってはダメじゃないかも知れないが、「最小少数の最小不幸」ということも大事なので、その辺はサジ加減だ。でもまぁ基本原則は「最大多数の最大幸福」でいい。

ところが終わらないものはそうではない。たいていの人はここで間違える。

なぜなら、

少数意見は多数化が可能

だからだ。つまり、「その場」では少数意見であっても、その少数が周囲を感化させて行くことが可能であり、それは多数派への道になるからだ。

他方、多数意見はこれ以上増えることはあまりない。そもそも、多くの人が賛成してしまっていれば、もう増える余地がない。どっちつかずの人が大勢いる場合は別だが、それは「どっちつかずを無視した」だけで、「多数」ではない。まー、何にせよ多数意見はこれ以上多数にはならない。

少数派が一生懸命啓蒙活動をすれば、多数意見だった人を感化出来る。少数派がある閾値を超えると、自発的に多数になって行く。さらにまずいことには、多数派というのはあまり問題を深く考えてない人も多くいるので、そういった人達は転びやすい。

こうならないためには、「少数意見」というのは、無視して生かしておくのではなく、積極的に叩き潰しておかないといけない。全ての「雑草」を抜いてしまった時こそが、多数派が安心して良い時であり、「無視出来るくらい少数」はいずれ無視出来なくなりかねない。

世の中には妙なことを言う人がいて、「アポロは月に行かなかった」とか「貿易センタービルの崩壊は水爆が地下にあったからだ」とかという主張がある。多分それらは電波的主張に過ぎないとは思うけど、そう信じている人達は少なからずいて、ネットにはそういった文書が結構ある。そして、それはネタの一種だとわかっている人さえもが「こういったこと言う人もいるんだよね。アハハ」な文脈であれ紹介したりする(私も同罪だな)。そうすると、なぜだか信じる人が増えてしまう。

こういった「意見」はたいてい「少数の電波」の意見として無視されている。でも、それを支持する人はいくらかいて、そういった人達が「啓蒙活動」をしている。そして、ごく限定された範囲であるとは言え、定着してしまう。下手をすると、無視出来ない規模になる。

そうならないためには、「雑草」は全て抜いてしまわなければならない。少数であるという理由で「無視」をしてはならない。

このことは逆に、「少数派」は殲滅されない限りは盛り返す余地があることだとも言える。何しろ多数であるということは「正しい」ということを何ら担保しないからだ。もし自分が「正しい少数派」であるなら、殲滅されていない限りは盛り返す余地がある。もちろんミント並の生命力が必要になるのだけど。

雑草は全部抜いとけ” への1件のコメント

  1. つまり、新しい言葉を新聞やテレビで毎日流せば、その言葉が浸透して、あたかもそういう問題や意味があるように思えてくるわけですね。
    分かります。

コメントは受け付けていません。