「群集の叡智」の発想の転換

予告通り、「群集の叡智サミット2008」でパネルをして来ました。

元々、「群集の叡智」なるものに懐疑的な私は、「空気を読まないでかき混ぜる」という役回りをやってました。お陰で、肯定的な立場の主張もはっきりしたし、否定的な立場の主張もはっきりしただろう… と思ってます。

詳しい内容はいろんな形でいろんな人が書くだろうから、個人的に目から鱗なことを。

あの場でも話したのだけど、IBMのやり方は実に頭いいと感じました。

「群集の叡智」なるものが成立するには、4条件あるとされています。

  • 多様性
  • 独立性
  • 分散性
  • 集約性

上の3つは個々のメンバーに、最後の1つはそれを活用するというシステムの条件です。

と、ここまではいろいろ納得出来る。万能ではないにせよ、意外に正解が出るであろうと考えらえる範囲は広い。

ところが問題は、

現実の群集は「群集の叡智」の求める「群集」になるのは難しい

ということ。つまり、何らかの条件が崩れてしまい、「群集」が「衆愚」に相転移しちゃう。そして、それに気がつかないまま答を出しちゃう。となると、結果として「叡智」でもなんでもないことになる。私があの場で使っていた「競馬」という例も、投票している人は利害や予見が絡むので、実は真の「群集」ではないという罠がある。だから、オッズの低い馬が必ずしも当たらない。

しかも、まだ発展途上の手法だから、パフォーマンス評価に類することが不可能に近く、「ほら、この結論と実際の結果は合ってるでしょ。凄いよね」ということしか言えない。ビジネス的問題解決手法だとすれば100%の答えは別に必要ない。でも、「この答えは70%くらい正しい」とか出てくれればリスク計算とか出来る。ところが、そんなものは出て来ないから「答え」は出て来ない。となると、いきおい

「群集の叡智」は「発想の手法」だ

みたいなトーンダウンしちゃう。なんでもいいから肯定したい人達はそれでもいいけど、やっぱり一般大衆としては「不確実な未来について知見を得たい」と思っていて頼りたいわけだから、なんか肩すかしを食ったような気がしてしまう。だから、私は有効性に懐疑的なわけ。そりゃ肯定派の人達は「過大な期待をしないで」と言うけど、いくからでも期待出来なきゃ使う必要もないわけで。

ここでIBMの凄いのは、ここで逆転しちゃって、

「群集の叡智」の求める「群集」は現実の群集である必要はない

と考えちゃったわけ。つまり、件の4条件を揃えたそこそこの規模の集団であれば、そこからの結論は「群集の叡智」の結論と同じだろうと考えた。つまり、「群集の叡智」なるものの理想像を考察して、それをエミュレートしちゃえばいーじゃんという発想。つまり、モデル化しちゃう。

こうやって作った「エミュレーション環境」は、制御可能だから、4条件を崩れそうになったらそうならないように戻しちゃえばいい。だから、期待される「群集」の通りにふるまってくれる。もちろん不特定多数に近いところと限定少数にしているものなら、うまく行けば前者の方が精度は高いだろうけど、精度限界さえわかればリスク評価も出来るようになる。結果的に後者の方が使いやすい。

これなら、ちょっと高めの期待をかけても大丈夫かなという気もして来る。既に書いてるように、私が一番「群集の叡智」を信用出来ないのは、

パフォーマンス評価が出来ない

ということだから。それにしても、この発想は凄いわ。