「凡庸」の価値

努力も工夫もない零細の本屋なんて潰れろということを書いた。

そうしたらはてブのコメントに凡庸であるというのはダメなことかという意味のことが書かれていた。きっぱり言ってしまえば、「凡庸な本屋」なんてのは、あそこで書いたように「とっとと潰れろ」と思う。

とは言え、凡庸に価値がないかと言えばそうではない。それは、社会がスターだけで成り立っているわけじゃないからだ。

「看板」のあるものに「凡庸」は有害だ。凡庸なものは、選択肢に挙げようがないからだ。もちろんいつも何でもかんでも、ちゃんとした選択で行動をするわけじゃないから、そういった凡庸なものであっても結果的に選択されないというわけではない。だから「消極的」には選択される。

だから、何らかの「売り」になるものがなければ、選択肢としての存在意味はない。その「売り」が「安いけどマズい」の類でも、安さに価値がある時には意味を持つ。明らかに「高くてダメ」なものはあまり意味がないような気がするけど、世の中には金を払いたくてしょうがない人もいるから、そういった人にとっては価値があるだろう。

ということを書いて行くと、「全てが程々」という凡庸なものには価値がないように見える。確かに「看板」があるものについてはそうだが、「看板」のないものについてはこの限りではない。なぜなら、どんなに優れた「看板」のものであっても、それを支えるのは「多数の凡庸」だからだ。

私が時々例に挙げるのが、

会社は定食

という話だ。

定食には「○○定食」というように、メインのおかずがある。「トンカツ定食」なら「トンカツ」だし、「刺身定食」なら「刺身」だ。定食はこの「メインのおかず」が看板となっている。顧客は良い「メインのおかず」を求める。

ところが、定食は「メインのおかず」だけでは成立しない。「御飯」も「味噌汁」も「漬物」もあっての「定食」だ。これはどんなに良質のものがあっても「看板」にはなりえないし、そこに重きを置かれることはない。でも、これらがなかったら定食は定食足りえない。「メインのおかず」だけだったら、酒のつまみにはなるが、食事にはならない。

いくら「メインのおかず」が優れていても、「御飯」の類がダメだと定食としての評価が下がる。「メインのおかず」の評価もそれに連れて下がってしまう。だから、「看板」にはなっていないものであっても侮ることは出来ない。

話は変わるが、私はあまり食べ物に好き嫌いはない。強いて言えばバナナがあまり好きではないくらいで、食材レベルの好き嫌いはない。ただ、どうしても歓迎しないものがある。それは

炊き込み御飯

だ。

炊き込み御飯そのものが嫌いなのではないが、炊き込み御飯のある食事というのがどうも好きではない。炊き込み御飯があると、どうしてもおかずが貧弱になったり、おかずに余分な味をつけたりする。かと言ってあれがおかずかと言えばそうではない。つまり中途半端なのだ。となると、炊き込み御飯は単体で食うしかないのだが、単体で食うには物足りない。「トンカツ」や「刺身」を用意して「定食」にするのも難しい。

「炊き込み御飯」に価値を認めないわけじゃないんだが、なかなか対処が難しい。価値が出そうなのは、宴会料理の締めくらいか。

白飯はどんな料理にもたいてい合う。ステーキだってハンバーグだって合わせられるし、ラーメンやお好み焼きにだって合わせられる。そして、それらの味をより拡がらせてくれる。それ単体で食えるものを探すのはなかなか難しいが、塩を振ればおいしく食える。特別味らしい味があるわけじゃないのに、味わいはあるし、美味い不味いもある。そして、腹を膨らませるのは、主に飯だ。

だから、「凡庸」というのは、この「白飯」みたいなものではないかと考えるわけだ。白飯だけでは美味しくないし、もちろん「看板」はつかない。だけど、何か「看板」があれば実力が引き出される。それ単体ではあまり価値はないけど、価値のあるものを支えれば、相乗効果がある。素晴らしい「売り」を支えるのは、こういった「優れた凡庸」なのだと。

「炊き込み御飯」は飯としての分を超えている。定食の御飯としてはうっとおしい。それが仮に「松茸御飯」であっても、それ単体では存在出来ない。

「凡庸」であることそれ自体は何も悪いことじゃない。社会にはそれぞれの「位置」というものがあるのだから、「凡庸」が居るべき場所がある。「凡庸」が妙に背伸びしてもつまらない。かと言って「凡庸」に価値がないわけじゃない。居場所を間違えなかったら、「かけがえのないもの」にだってなるのだ。優れた「凡庸」があってこその「看板」でもある。

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