「等価交換」

はぶにっきより。

殺せし者には死を

はぶさんは、

等価交換というのが、私には一番理解しやすいです。

って言ってる。確かにわかりやすいけど、ちょっとおかしい。

なぜなら、本当に「等価交換」と言うのであれば、「1人殺して死刑」はいいとして、2人以上だったら対処のしようがないということ。現代の法律では、「罪は本人に帰す」ことになっているので、2人分の死を償うことが出来ない。これが「死をもって償う」という考え方の根本的な限界。

「1人以上殺せば死刑」にしてしまうと、「1人殺すも2人殺すも同じ」とかやる奴が出てしまう。だから、今までの判例の「3人殺せば死刑」というのも、ちょっとハードルは高くなるけど、本質的に抱えている問題は同じ。今回は「2人殺して死刑」になったけど、この点での本質的な問題は同じ。程度の違いはあるけど、質の違いまではない。

これは「生命」についてだけど、財物でも同じ。簡単に金に換算出来るものなら、民事では「損害賠償」みたいな手があるけど、物でもそれで済むとは限らない。それに、そもそも刑事には損害賠償的考えはない。「憧れの人が使った爪楊枝」なんて、客観的な価値は0だけど、主観的には何物にも換えられない。捨ててしまった場合の「存在」を算出するなんて不可能だ。「償う」という考え方の限界はそこ。

結局のところ、「刑罰」と「償い」は一致させようがない。まー、その辺のことがあるから、現代の法では「矯正」を中心に考えることになっている。死刑廃止な人達の論拠の一つは、「死刑」にはそういった「矯正の放棄」があるということ。

「社会」あるいは「他人」にとっては、実はそんなもはどうでも良くて、「抑止力」と「平等感」の方が大事。ところが、「死刑になりたいので殺した」なんてわけのわからん奴がいると、「抑止力」は期待出来ないことがわかる。そういった「すっきりした感」がないから「平等感」もビミョー。そういった意味では、誰もが納得する「刑罰」なんてものはないのかもしれない。

「遺族感情」とか言われたら、遺族のない人は殺してもいいのかってことになってしまうし、「本人の無念」とか言われたら、自殺幇助はしてもいいのかとか。

ということまでは、ちょっと法律や法理論を聞き齧っただけでもわかるんだが、ここより先は専門家でも結局「俺理論」になって行くのは御承知の通り(壇さんも「わからん」言っている)。だから、当事者でも専門家でもない私は、関心を持ちつつも「ああそうなのか」と思う以上のことは出来ない。納得出来るかどうかという話もあるけど、納得するしかないわけだし。