若い人、特に若い技術者が上司や先輩を批評して、「あの人は知名度と政治力があるだけだ」的なことを言うことがよくある。確かにそう批判される対象を見れば、「そうだよな」と思う人も少なくない。特に大企業になると、
上司へのゴマスリ
だけでのし上がったとしか思えない人も少なくない。
しかし、その発言をする前に一つ考えて欲しいことがあるのだ。それは
政治力や知名度は、
根拠なく身につかない
ということである。政治力や知名度は天から降って来るものではない。人徳も実力もない人間が、政治力や知名度を身につけることは不可能なのだ。技術は努力だけで身につくかも知れない。しかし、政治力や知名度は努力だけでは身につかない。その上でのさらなる精進や、技術の勉強とはまた違った種類のものを身につけてこそ、政治力や知名度が身につくのである。だから、政治力や知名度があるからと批判するのは、
単なるやっかみ
に過ぎないのだ。悔しかったら、技術以外の勉強もする努力をすればいいのだ。
また、この「政治力や知名度しかない」という発言の裏には、「技術はない」というニュアンスが含まれている。しかし、それはいささか違う。技術がなくて、政治力や知名度が身につく程、世の中は甘くない。しかし、それでもやっぱり技術がないように見えるのも事実である。それはおそらく、その人が「先達」であったということで、実際の働きをしたのが過去であるからなのだろうと思う。
「先達」というのは、無用な努力を必要とする。何しろ道のないところに道を作るのであるから、本来の働きの他にも色々とやらなければいけないことがあるのだ(一例を挙げるなら、「解体新書」は現代で言えば、「ターヘル・アナトミア」の翻訳に過ぎない。しかし、人体についてよくわかっていなかった当時は、「たかが翻訳」のために改めて解剖をする必要があった)。一度道がついてしまえば、例えどんなに細い道でも、後はそれを拡げて行けば良い。ところが
最初の道を作るのは容易ではない
また、後でその道を素晴しいものにするのは、そう難しいことではない。だから、後を歩けば綺麗な道が作れる。しかし、最初に道を作るのは、道が出来ただけでも大変なことなのだ。綺麗にしている余裕なぞない。とにかく作るのが全てなのである。その成果だけ見れば、いくら大変であっても汚ない道しか作れない人を評価するよりは、
2番煎じ
であっても、綺麗な道を作る方を評価したくなるのは、ある意味で当然なのである(逆な評価をしたくなる人もある意味で当然である)。これは単に評価基準の問題なのであるから、どっちがどうと言えるものではないとは思う。
ついでだから書いておくと、「竹下登」は非常に偉い人だと思う。好きか嫌いかと言われれば、私は、
大嫌い
である。しかし、とても偉い人だと思う。
自民党「竹下派」はかつて最大派閥であった。これを色々な批判をした人がいるのだが、今思えば、それは
単なるやっかみ
にしか思えない。「なぜ最大派閥になれたか」を聞けば、おそらく誰もが納得するだろうと思う。では「なぜ最大派閥になれたか」と言えば、彼が
一年生議員を大切にした
からなのである。当選1回目の議員は何の力もなければ、先輩へ何かするということも出来ない。ところが、竹下登はその一年生議員を色々世話をしたというのである。誰も面倒を見てくれない時に、このようにされれば、それは恩を感じるのは当然である。そうして竹下派は大きくなったものなのだそうである。
もちろんこのようなことで政治が決定されるのはどうかと思う。しかし、このような一見無意味なことの積み重ねの結果が、あの大勢力の元だと言われると、やはり感心せざるをえない。「政治力」は根拠もなく身につくものではないのである。