「税金の無駄使い」という思考停止の強要

世の中のいろんな批判によく使われるのが、「税金の無駄使い」という類だ。

対象となるのは、役人の行動だったり、ハコ物だったり、国際援助の類だったりといろいろなんだが、よく考えるとこれ程思考停止させる批判も少ないんじゃないか?

税金は我々が苦労して稼いだ金のピンハネである。だから、有効に使って欲しいというのは、納税者共通の望みである。だからこそ、「無駄使い」は批判されるべきものだ。だから、税金の使途についての監視はするべきだ。

とは言え、何かの評論の時に「税金の無駄使い」と言われたら、それはちょっと眉唾で聞くべきではなかろうか。なぜなら、あることを「税金の無駄使い」と決めつけてしまうということは、無条件の批判の対象にしてしまうということでもあるからだ。ところがよく考えてみると、「税金」というものの使われ方、あるいは「無駄」という見解への見方というのは、百人百様のものがある。

たとえば、「私」という観点からすれば、自分がおそらく行くことがないであろう、縁もないであろう土地での補助金が税金から支出されていたとする。私にとって何のプラスにもならない。そういった税金であっても、私の納税分はいくらか含まれているはずだ。でも、「私」にしてみれば、そんな見も知らない土地のわけもわからない補助金にするくらいだったら、家の前の道を綺麗にしてて欲しいし、家の近所のホームレスを何とかする「補助金」として使ってくれた方が嬉しい。そう考えると、「知らない縁もない土地」での補助金なんてのは、主観的には税金の無駄使いでしかない。

「いや、それは多くの人が助かっているんだよ」と言われれば、それもそうかなとも思うから、とりあえず税金の無駄使いだと思うことはやめてみよう。

でもそうすると、政治家が私腹を肥やすことも、無駄使いではなくなるのではないか? なぜなら、入った金はいつか出て行く。出て行かなくても金融商品くらいには化ける。となると、それによる経済効果は回り回って私のプラスになっているはずだ。それに群がって食っている人達がいるのも事実なので、「多くの人が助かっている」というのも嘘ではない。

とか考えると、「経済効果」まで考えてしまったら、「税金の無駄使い」というものはなくなってしまう。本当に無駄に使っているにせよ、それで食っている人達は確かに存在してるわけだから、そういった人達を潤しているのは事実なのだから、それは回り回って来るものだ。逆に「有効でなければならない」の究極は、税金なぞ納めないで町内会に寄付でもしてしている方がいいということになってしまう。

つまり、「無駄」かどうかなんてのは、どの時点でどんな立場でどう見るかによって、様々だということだ。金は天下の回りものである限り、そういったものなのだ。だから、無駄使いかどうかは、かなり恣意的に使うことが可能だ。

となると、ある税金の使途に関して「税金の無駄使い」だと言ってしまうということは、そこで思考停止を要求しているということでもある。「天下の回りもの」と見れば、何だって無駄ではないし、「俺のためになるか」と見れば、たいていのものが無駄だ。どの辺に視点を置くかによって、自由自在に受け止め方を変えることが出来る。一見正論のように見える言葉でありながら、聞く人に思考停止をさせてしまうのが、税金の無駄使いという批判なのである。

だから、誰かが批判的な文脈で「税金の無駄使い」という言葉を使ったら、そこには恣意的な思考停止の要求があると見るべきだ。「無駄使い」という、様々な実態を表現しながら、厳密な基準を持たず、また正義の正論的に見える言葉を持ち出すというのは、つまりは

俺が正義だ

ということを思考停止的に認めさせるためのものなのである。だから、「なぜそうか」という説明なく「税金の無駄使い」という言葉をふり回す人の言うことは、聞くに値しないと思っても過言ではない。少なくとも、そのレッテルの貼り方はアンフェアである。