「スタイル」の根底にある彼我の違い

中村氏の大罪(1)の途中からいきなり、「日本スタイル」という話が出て来たので、ちょっと解説。

チラと書いたのであるが、日本とアメリカの哲学の根底にあるものはかなり異なる。また、アメリカとヨーロッパの根底にあるものもかなり異なる。日本と韓国はかなり近いが、中国はかなり違う。これはおそらくは生活様式や起かれた環境が違うのであろう。

以下に書くことはかなりステレオタイプである。あくまでも、そういった傾向があるということであるから、個別の反例は認めない(ぉ

前にちょっと書いたのだけど、アメリカの「良い社会」というのは、「個人の幸福が追及できる社会」であり、社会の「幸福度」は個人の幸福の総和で表現される。はじめに個人ありきである。

同様にヨーロッパの「個人の幸福」とは、「幸福な社会に住むこと」であり、個人の「幸福度」は社会の幸福度の部分で表現される。つまりはじめに社会ありきである。

これらの違いは、たとえば「自由」とか「個人」とかに現れていて、アメリカでは臓器を売買することは、「個人の勝手」であり、それを妨げるのはその個人の権利の侵害がない限り(たとえば借金のカタに「腎臓売って来い」と言われるとか)、その個人の権利の侵害(自分の身体を自由にしていいという権利)である。ところが、ヨーロッパの多くの国では、「個人とは国家の一部」と考えられているようで、臓器の売買は禁じられている国が多い。同じようにアメリカでは「DNA鑑定」は個人の当然の権利と考えられているが、ヨーロッパの多くの国では違法行為である。

これはどうも「リソース」というものへの考え方の違いがあるのではないかと思う。アメリカは「開拓」という考え方で作られた国であるから、「頑張って開拓すれば、それはその人の頑張りの成果」であり、「開拓する対象は事実上無限」という考えが根底にある。アメリカを飛行機で横断する機会があれば、この「開拓する対象は事実上無限」というセンスは理解できると思う。

ヨーロッパはそうは行かない。「開拓」しても知れたものである。だから、リソースの制限が最初からある。だから彼等の「開拓」は「リソースの利用効率の向上」である。そうなると、「個人の幸福の追及」についても、自ずと制限がある。

この違いはいろんなところに出て来る。「国」という概念もそうで、ヨーロッパは民主主義国家であっても国王がいるというのは、システム的に「そんなに不都合はない」こともあるし、国家を構成するのにはむしろ都合が良いからである。国の象徴としての国王というのは、メッセージとしてわかりやすい。アメリカが「合衆国」であり、国家元首は大統領であるというのも、彼等の「国」という概念がそうだからである。ここで「ヨーロッパは古臭く遅れている」と見るのは、アメリカに毒された見方である。多分ヨーロッパは100年たってもアメリカ的にはならないだろう。

日本の場合、リソースが無限とみなせないという点は、ヨーロッパと同じである。日本の開国はアメリカの圧力であったのに憲法はヨーロッパのものを手本にしたというのは、当時まだアメリカが「一流国」と思われていなかったことも遠因としてあるが、ヨーロッパ風なことが日本に合っていたからである。

これに対して戦後の憲法はアメリカからのものであり、根底にアメリカの哲学が存在している。これは残念ながら日本という国土にはあまり適合していない。そういった意味では、右翼の連中が「占領憲法改正」と主張するのは一理ある。根底に「占領政策をいかにうまくやるか」ということがあるからである。

アメリカによって作られた戦後憲法に「天皇」なんてものが存在するのは、ある意味「ねじれ」である。この「ねじれ」については、いろいろな考証がされているので、ここでは論じない。戦後憲法は環境的にもシステム的にも、あまり感心できたものでないところが少なくないし、だからと言ってホイホイと改正できないのは、これも「ねじれ」の原因と同じようなものがあるというのが、ちょっとナニだ。とは言え、今「憲法改正」と言う奴等は、こういった根底の哲学の問題ではなくて、9条の改正だったりするというのが、本当の哲学を持たない国家の… まぁそれはここの主な話題ではない。

リソースが無限とみなせないというのは企業活動にも影響を与えることは言うまでもない。もちろん「市場は海外にもある」というのは嘘ではないし、そうなると無限とみなせると言えなくもないが、「国境」は一つの壁であるので、それを超えるのはあまり楽なものでもない。また、市場とみなせる地域がそう広くないことから(だから中国が流行る)、世界的規模を持つ会社は生産もデカいので、結局無限とみなせない。

ところで、よく「グローバルスタンダード」と称して「アメリカンスタンダード」がやって来るわけだが、「ヨーロピアンスタンダード」はかなり日本っぽい。だから、「日本スタイル」と言うよりは、「ヨーロピアンスタイル」だと思っても大きな間違いではない。アメリカなんてしょせん世界の1/30に過ぎないわけなので、「アメリカの言うグローバルスタンダード」を鵜呑みにする必要はない。もちろんそういった「スタイル」を決定する要素は、リソースだけではないから、別の軸を持って来れば、ヨーロッパと日本は随分違うとも言えるが。

まずこれらを頭に置いて、「中村裁判」を見てみると面白いと思う。

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