笑わぬ眸

「最近、不眠症気味なんだ」

 隣の運転席にいる先輩の言葉だ。海岸近くで馬鹿騒ぎした飲み会も熱が冷め、それぞれ明日に備え睡眠をとる者、未だ少数で飲みすすめる者、帰路へとつく者、四十人近くいた者は散り散りになっていた。私は珍しくローペースで酒を飲んでいると、あまり言葉を交わしたことの無い先輩と飲み交わす機会を得た。趣味や出身地など共通部分が多々あった為に意気投合し、今までずっと話し込んでいた。いつも私は酒に強い為か他の先輩と飲み比べをせざるを得なくて毎回浴びるように酒を飲み潰れていた。しかし今回共に飲み交わした先輩はあまり強くないらしく、まったり穏やかに酒と話を楽しむことが出来た。羽目を外して大騒ぎするのも楽しいと思うが、たまにはこういうのもいいと思った。
 近くに設置したテントには眠れないという先輩は自らの車で寝るといった。私も出来ればテントでなく車の中で眠りたかった。恐らくテントの中は蒸し暑いだろうし、それ以上に蚊等の虫に悩まされるだろうと思っていた。独り言のようにそう呟くと、一緒に寝ようと先輩がいってくれた。シートを倒して取り留めの無い会話をした。恐らく一時間程経ったであろう。現在午前二時十三分。酔いも冷め微睡んできた私は先輩にも寝ないのかと問うたのだ。

「大丈夫なんですか?」
 月明かりと車内の冷房等のボタンの光のみしかない所為か、先輩の表情は読み取ることは出来なかったが、多分自嘲気味の笑みを浮かべた。
「体調は最悪だよ。三時間寝られれば良い方だからね」
 私はこういう飲み会等を除き、必ずといっていいほど睡眠六時間は確保する。その半分など絶対あり得ない。思わず驚嘆の声を上げてしまった私を先輩は少し掠れた声で笑った。
 先輩が笑う時は殆どが自らを蔑むように笑う。その行為は恐らく先輩自身気づいていないだろう。いや、もしかしたら気づいていてそのことに嘲笑しているのかもしれない。
 私はその笑みを見るたびに背筋が凍る。眸が笑っていないのだ。深い海の如く静寂で獣の如く残虐な眼差しをする。普段は柔和な表情を浮かべていて一片の濁りも見えないが、時折、特に微笑んだ後に眸を見開いてしまう程の冷淡な眼差しを垣間見る。おそらくそれは先輩の癖なのだろう。私はどうしても目が離すことは出来なかった。
 不意に先輩はこちらを向いて少しだけ柔らかさを含んだ、けれど矢張り冷淡な笑みを浮かべた。心配する私の表情に困った先輩は眉を僅かに歪め仰向けになった。
「もうきついだろう。寝ようか。」
 先輩はそういうと多分私の為に目を閉じた。
眸を閉じても眠れるはずがない―でなければ不眠症になることはない。心配をした私を安心して眠らせるために眠る振りをしているのだろう。確かに私の眠気は極限まで迫っていたが、どうしても眠りたくなかった。隣で横たわる眠りに襲われぬ先輩を一人残して眠りたくなかったのだ。それでも身体は言う事を聞くことはなくそのまま眠りについた。

 私が深い眠りの息を吐く頃、先輩はその音を聞きながらあの深海の如き静寂で冷淡な眸をして何を思うのだろう。





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