触れられぬ手

先程までの情事の熱が冷める肌寒さが帰路へ着く時刻の迫りを告げた。
隣で静かな寝息を立てている愛しい人を起こさぬよう男はベッドから下りた。
外気の寒さが身を刺し暖かい温もりがいとおしくなる。
微かな光を頼りに無造作に脱ぎ捨てた服を探した。

スラックスを履き終え外套(がいとう)を羽織ろうとした時ベッドから俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
少々(かす)れている声は同衾(どうきん)の激しさ故か否か。

「悪い、起こしたか?」

身体を起こした側に腰掛けまだ完全に目覚めきっていない愛しい人の頬を撫でる。
朦朧としていた目を細め俺の手を邪険に払い落とす。
俺の手とは違い触れた手は温かかった。

帰るのかと問う。
決して目を合わせようとせず緩く結びなおしたネクタイの方に目を落としている。
俺はうつむく愛しい人の真っ直ぐな髪に手を差し込んだ。
寝癖などついたことが無いであろう漆黒の絹糸は柔らかく指に馴染む感触が俺は好きだ。
ゆっくり撫でていると目線を下げたまま今度は優しく俺の手を払う。

「帰るよ」

言葉を放った後の沈黙がこの場を離れさせなくする。
腰を上げることも出来ず下を向き睫毛を震えさす愛しい人を抱きしめることも出来ない。


互いに帰るべき場所がある。
人を騙しながら俺たちは身体を重ねる。
許されるべき行為ではないことを互いに承知している。
激しい閨房(けいぼう)になろうとも愛の(ことば)を唱えあっても一夜を共にする事は決してない。
それが騙した人への(わず)かながらの無意識による謝罪なのであろう。
俺は夜が明ける前に閨から離れそして愛しい人は引き止めない。
この行為が俺たちの関係を続けるための誓約でもある。
故に愛しい人は俺の手を払うのだ。
早く帰れと温もりを残すなと無言の言葉を放つ。
離れられなくなってしまう――最中の時にしか合わせぬ瞳は哀しく語る。

事が済めば言葉も交わすこともなくただ誓約を守ってきた俺たちは
もう既に戻れないところまで来ていることに気づき始めているのだ。
情事の後すぐに背中を向け合わないようにしたのはいつからなのか。
着替えの(きぬ)擦れの音をわざと立てるようにしたのはいつからなのか。
服を(まと)った俺の背中に声をかけるようになったのはいつからなのか。

自ら視界を故意に濁し相手を見えなくしていただけだ。
目を開き凝視すれば直ぐ側に相手がいることに気づく。
少しずつ俺たちはお互いの距離を縮めていたのだ。
手を伸ばせば容易に触れることが出来ることを知っている。
俺も愛しい人もわかっているのだ。
それでも俺は見ないふりをして現状維持を望む。

戻らなければ二度と戻れない。
抱きしめてしまえば離すことが出来ない。
目を伏せ腰を上げ(きびす)を返して出口へと向かう。
愛しい人の長い睫毛から涙が落ちる前に。
吐く息が震えぬように唇を噛んだ。
堪える嗚咽から逃げるように。
戸の閉まる音がした。


ただ手を伸ばして抱きしめればいい。
何もかも失っても愛しい人がいればいい。
触れられぬ手をきつく握り締めながら幾度思う。
まるでパンドラの(はこ)をあけるようなものだ。
守り通してきた形無きものを愛と呼ぶのであれば――
残るものは愛ではない。
愛は残らないのだ。
残るのは希望。
俺たちの希望は帰るべき場所だ。

馬鹿げた詭弁を言い聞かせて自らを煙に巻く。
そうすることで強制的に帰路を急がせる。
温もりを喧騒の冷たさで消しながら。
果敢無き愛を見ぬふりをして。
俺は静かに息を吐いた。





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