カルシウム

3度目の戯言を吐く学友に最大級の侮蔑の眼差しを送ってから、僕は教室から出た。後方から薄汚れた声を投げかけられたが、僕には何の興味も無い。寧ろ「呼んでるぞ、お前」と横切る際に目に入ったイカれた髪の色をしている女に伝えてやろうとさえ思った。
 教室の中は虚無感と熱気に満ちている。僕と同い年の若者の最適温度は、低体温の僕にとっては暑すぎる。夢と希望に満ち溢れた熱気ある高校生とは違い、自由と云う束縛の紙一重のものを手に入れた中で、現実の厳しさが見え隠れしている大学生は無駄に熱を持て余している。使い道の無い熱が僕の肌を触れる度に吐き気と頭痛に悩まされ、不愉快で仕方が無い。
 真っ黒に染め直した髪を掻き毟りながら、スニーカーを鳴らして廊下を歩く。途中授業講師とすれ違ったが、今更あの教室に戻って教本を読むだけの講義を受ける気にはなれなかった。この大学内にまともな講義をする講師は恐らく片手で足りるだろう。そう思うだけでうんざりした。僕は不快な気持ちを払うように唯一の喫煙場である中庭へ向かった。
 煙草を覚えたのは1年前、バーで出会った女からだった。綺麗な爪をした女の喫煙姿は、異様なほど艶かしく、痩せぎすな身体からは想像できないほど色気を放っていた。寝た後に一服していた女から奪ったのが最初の煙草で、咳き込む事は無く、自然に僕の肺に浸透していった。元々運動をしていた所為か、酒を飲む機会はあっても煙草を吸うと云う行為は範疇外だった。そういうものが意外とはまりやすく、自分がヘビースモーカーだと気づき始めたのは、声が掠れ多少身体が細くなり、煙草代に金が無くなり出した頃だった。
 授業時間中の所為か中には誰もいなかった。僕はいつもの特等席に腰掛け、残り少ない煙草を咥えた。無くなっていく煙草に2つの思いがある。1つは残り少ない煙草を悲しむ気持ちで、もう1つは湿気た煙草を早く吸い終えて新しい煙草を吸いたい気持ちだ。あまり風が無い所為か紫煙は緩慢な動きで上空へ上がっている。煙で霞んだ空でさえも、青過ぎる空は僕の眼を痛めつけるらしい。どこかで聞こえる賑やかな声に溜息を吐きつつ、僕は煙草の燻る音に集中した。
 惰性で過ごす生活は楽だ。しかし不快な気持ちは徐々に蓄積されている。煙草を吸い始めてから量が減る事は無く、気づかぬうちに量が増えていく。いっそ肺癌になって死んでしまいたいとさえ思う。どうせ死にはしない事をわかっているからこんな事を思うのだろう。己の思考回路の馬鹿馬鹿しさに吐き気がする。最後の一本を残して僕は煙草に火をつけた。
「一本、くれないか」
 予想外の声が頭上から降ってきたので、顔をあげると目の前に男が立っていた。意識を飛ばして考え事をしていたからといって、人は近づいて来ているのを気づかなかった自分に苛立ち、狼狽を隠すように舌打ちをする。見たことの無い男だった、といっても同じ学部の人間でさえ分からない。多分何処かで知り合っているのだろう。判断する行為も面倒臭くなり、無言で残り1本の箱を投げた。
「ありがとう」
 男は近くの席に座った。何故そこへ座ると心の中で悪態をつき、出来るだけ視界に入れないようにした。ライターを擦る音、ふたを閉める音、煙を吐く音、ひとつひとつに苛々する。どうも苛々して仕方が無い。何度目かの灰を灰皿へ落とし、苛々を消すように煙を吸い込む。
 「君にはカルシウムが足りない」
変な響きの声を持つ男だと下らない考えが浮かぶほど、放たれた言葉の意味を理解するのに時間がかかった。しかも言葉と同時に箱の中に入れていたライターを投げ渡されたので、尚更だった。かるしうむ、カルシウムは牛乳?と意味の無い考えを取り払ってその男に問い質そうと思った。
「あ?」
 顔を向けた頃にはその男は中庭を抜けていて、遠くに背中が見えるだけだった。印象に残らない男。先程まで目の前にいたのに、顔はおろかどんな服を着ていたのかさえ記憶に無い。残ってるのは声の響きと手中にある僕のライターだけだった。状況判断が出来ずにわけも無く無駄に呆けていたら、煙草が短くなっていたので捨てた。
「つーか誰だよ」
 溜息混じりに独りごちて、髪を掻き毟った。指に髪が必要以上に流れるのは髪の伸び過ぎな所為だ。煙草を吸うにも無くなってしまったので、僕は煙草を買いに行く。多分、牛乳も買うのだろう。





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