凄惨の境地

 お前の細君が亡くなったのはいつだったか、と沈黙を破ったのは牧田だった。 牧田とは戦争時代で同じの釜の飯を分け合った戦友である。 終戦後も共に復員し現在でも交友関係は続いている。 あれは確か昭和二十五年の冬だっただろうか。 プロ野球初の日本シリーズ開幕頃だと私は記憶している。 元々牧田が私の自宅を訪ねることは(まれ) で多くは私が牧田の元へ出向くか、 近くの酒場へ行くかしていたのだ。 突然の訪問だったので私はどうしたのだ女でも出来たのかいと 万年童貞億手男である彼をからかった。 その度に俺は純情なんだと牧田は怒鳴り返すが 粗野で強面な男が純情はないだろうと私は思う。 しかしこの時は違って怒鳴り返すことも無く曖昧に言葉を返したが 上手く聴き取ることが出来なかった。 何となく(おも) 持ちが暗いことを察した私は何があったのだと低い声で問いただした。 それでも牧田は口を開こうともせず座敷に座り込み膝の上で 握られた自らの手を見つめるだけである。 これは相当なことがあったに違いないと悟ったが彼がわけを云わなければ論ぜられぬと思った私は 茶を用意する為台所へ行こうと腰を上げた時だった。
 お前の細君が亡くなったのはいつだったか。
 何やらわけの分からぬことを云う男だ。 律子は亡くなっておらぬ現に今同じ屋根の下にいるぞと云った。 私の愚妻―律子とは幼き頃からの知り合いで―許婚(いいなずけ) であった― 容姿、挙措(きょそ)、性格は申し分なく私の妻には勿体無いほどの女である。 戦前に婚儀を行う約束をし復員後すぐに致した。実家から離れたこの土地に広くは無いが 家を構えることも出来た。当初は律子の体が丈夫でない所為か子宝に恵まれずすぐに 流れてしまっていたがやっと最近種を宿すことが出来たのである。もうすぐ四ヶ月ほどになる。 つわりも安定し安心していたが今朝から体調がすぐれないと云うので寝室で寝かせているはずである。 律子は死んだはずは無いのだ。可笑しなことを云う。本当の用件を云えと牧田に問うた。 牧田は顔を緩慢な動作で上げこの世のものでないような気味の悪い笑みを 浮かべ矢張り同じことを繰り返す。 その瞬間に悪寒が走った。あまりに残忍で恐ろしい笑みだったのだ。そのことを 悟られぬよう目前の男の面を睨んだ。誰かの細君と間違ってるの ではないかいい加減にしろと声を上げた。語尾が震えた。改めて自分自身が狼狽している ことに気づいた。少々冗談が過ぎる動揺するのは当たり前だと自分に言い聞かせた。 牧田はそのような私を嘲笑するかのように笑い続けている。にやにやと気味が悪い。 いつもとは違う牧田の言動に戦々恐々とした私はこれでは埒が明かぬ。律子は寝室で 休んでいるぞ見ろ腰を上げ居間の横の寝室に続く襖を開けた。 ほら見ろ律子は寝―律子は。寝室の硝子窓が大きく開かれ白きレースのカーテンが冷たい風に 揺られている。何か吐き気を催す匂いが鼻につく。何の匂いなのだ。 掛け布団は部屋の端に押しやられ律子の肢体が見えた。紅い。紅い。血。血の匂いだ。 大きく開かれた律子の両足の付け根から赤黒い固体が散らばっている。 声を上げることも出来ず無残な姿にされた妻に駆け寄ることも出来ず私はその場に立ち尽くした。 明らかに妻は生気を失っていた。あれだけの血がか細い律子の身体から流れ出たのだ。 流れ―流―赤子か、あの固体は赤子なのか。いやまだあんな大きな形は成していないはずだ。 いや。あの固体の一部が赤子だ。残りの固体は切り刻まれた律子の性器から抉り出した肉片― 眼から入る光景を思考と繋ぎとめた途端眼下に広がる凄惨な状況が私の 吐き気をかきたてその場で嘔吐した。一体誰がこんなことを。(むご) たらしい。

 ―――――お前の細君が亡くなったのはいつだったか

 ぼんやりと吐き出した吐瀉(としゃ)物を見つめ牧田の言葉を思い出した。 牧田は何故。牧田が―牧田がやったのか。牧田の姿を探そうと勢い良く顔を上げると 目前に刃物―律子を死に至らしめたものであろう―を右手に構え悪魔のような笑みを浮かべた 牧田がいた。

 堕胎せにゃならんだろうさ。お前の子だ。
 その時お前も細君も死んだのだったな。

 思い出したぞ―右手を大きく振り下ろし肩に激痛を感じた。私は痛みに耐えかねて体勢を崩し 肩から抜かれた凶器を振り下ろされる音を聴いたのが最期だった。

 昭和二十五年の師走。隣人の老婆によって二体の死体を発見した。 部屋中が床や壁が絵具を撒き散らしたように紅く血の匂いで充満していたのだった。





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