文系知識人にblogは無理では?

Geekなページ
ブログを始めるにあたり有名人よりも素人の方が有利な点

と、

小倉センセのblog
他人の足を引っ張ることばかり熱心な国民を対象としたWeb2.0なんてそんなもの

より。

小倉センセの苛だちは非常によくわかる。また、かなりの部分同意出来る。ネットの過度なフラット化は、いろいろな部分で弊害を起こしている。

たとえば、これは批判する側もされる側同じ罠にはまることなのだが、いわゆる「文系の偉い人」がblog内で何か「おかしなこと」を言った時に、その人がどんな人かよく知らないで、その「おかしなこと」につっこんでしまった場合を考えてみるといい。その「おかしなこと」は単なるレトリックかも知れないし、素人には理解を超えた論理かも知れない。もちろん間違いかも知れない。ところが、脊髄反射的につっこんだから、うまくすれば「してやったり」なのだが、下手をするとレトリックの罠にハマってしまったり、無知を晒すことになったりする。まぁそんなコメントはたいてい匿名でされるものだから、「○○の××は馬鹿な奴」という悪評は起きないだろうが、普通の神経を持っていればたとえ匿名であっても、「げげ。しまった」と後悔することになってしまう。まぁ匿名で脊髄反射コメントをする奴がそこまで知性があるかどうかはわからんが。

これが、「偉い人」が講演会や書籍で言っていたなら、「おかしなこと」は「多分レトリックなんだろうな」とか「自分の知らない何かがあるんだろうな」と思って聞くことも出来るだろう。少なくともblogコメントにあるような「低レベル」なつっこみはないはずだ。「フラット」だと、つい相手のレベルを自分のレベルで計ってしまうのだが、「差」があれば自分のレベルで計るにしても、「差」を意識したものになる。その結果、無用な恥も晒さないで済むし、くだらないフレームになることもない。

これはちょうど、「重力」が0になったに近い落着かなさだ。物事を動かす時に邪魔だった「重力」が0になってしまったら、ちょっとの力でふわふわと勝手に動いてしまい、ちょうどスペースシャトルの中のようになってしまったと。ラーメンの丼は軽い方が食いやすいけど、重力0になってしまったら、ラーメンは食えん。

これが「理系」の場合、たいていのことは検証可能だ。だから、誰が何を言おうと、正しいことは正しいし、間違いは間違いだからはっきりする。レトリックの類があったにせよ、それはあくまでも「表現」だけのことであって、「何を語るか」の部分が間違っていなければそれでいい。だから、フラットだろうが匿名だろうが、それ程困ることはない。コメントが匿名の脊髄反射であっても、正しければそれでいい。

これが「普通の人」の場合、元々フラットなところにいる。匿名でも顕名でも、「どこかの誰か」でしかないから大差ない。その辺のメリットのことは、冒頭に挙げた「Geekなページ」に詳しい。

小倉センセはその前のエントリで、

面白いコンテンツを提供できる他人になぜ人格攻撃等への「耐性」を要求するのか。

とも言っている。これも確かにそうだと思う。しかし、「blog」が何かということをいろいろ考えてみると、

それはblogに求めるものとは違う

のではないかと考える。私はあくまでもblogは

大衆の雑文

に過ぎず、専門家が専門家として語るメディアではないのではないかと考える。専門家が使うなというわけではないが、専門家が専門家たるメリットを有効に使えるメディアではないと考えるわけだ。

たとえるなら、「blog人の発言」というのは「有権者の1票」であり、「専門家の発言」とは「国会決議での1票」というくらい違うものだと思う。もちろん「国会議員」だろうが「弁護士」だろうが「生越昌己」であろうが、選挙の時の1票は1票に過ぎない。でも、その1票で直接政治が動くかと言えばそうじゃない。

そう考えると、専門家が専門家として「面白いコンテンツ」を提供しようと思うなら、その場は多分blogじゃない。ネットに場を求めるなら、「ネット雑誌」みたいなものだと思う。そこでうまく運用を考えれば、「他人への人格攻撃」を避けることも出来るだろうし、「自由に主張をする」ことも出来るだろう。もちろんblogと同じ運用をしてもいいだろう。ちょうど、日経BPがやっている、日経ビジネスオンラインみたいなものだ。あるいはEngadgetやGizmode, GIGAZINEのようなものでもいい。

こういった「発言機関」を作れば、いろいろなことを「編集部」がやってくれるし、相互に信用の担保も取れる。「差」をどう確保するかは、編集方針ということになる。新聞のようにメディアとして責任を取るのであれば、個々の記事は匿名だっていい。

そういった意味では、「直接の発言の場はblog」という考え方だけでは、もはや「直接の発言」を維持し切れなくなって来たと言える。また、それを考えると「blog限界論」というのは正しいかも知れない。ただ、それはblogが限界だったというのではなくて、

本来blogがしなくていいもの

にまでblogを使っていたということであって、blog自身の問題じゃない。

「うちの猫があくびしてニャー」みたいな話は、SNSの日記の方が向いてるだろうし、「大前研一」や「花岡信昭」の「御高説」はnikkei BPnetの方が向いてる。なんでもかんでもblogでやりゃいいってのがそもそも間違いではないかと思う。

だから、表題の「文系知識人にblogは無理では?」というのは、けっして耶愉ではなくて、

使うべきツールの違いがある

ということなのだ。

PS.

「文理の問題じゃなくて個人の資質の問題」というつっこみがあったのだけど、これには半分同意。実際、「文系知識人」でも上手い人は上手い。ではなぜ半分かと言えば、

  • 上に書いたように、理系文章と文系文章には本質的な違いがある
  • どんなメディアでも向き不向きはある
  • いくら資質があっても「blogが上手いだけ」では意味がない

と思うから。「炎上を止めてblogを殺す」的展開になるのも面白くないし。